銀幕の都(香港2)

【映画の街】

香港に初めて触れたのは多分ジャッキー映画で、それは庶民的な街並みと都会が併存する、中国であって中国でない世界だった。そのイメージに親しんでいたせいか、初訪問時も高揚感と既視感が先立ち、緊張する事も無かった。質素な食堂や露店、マンションの窓からせり出す洗濯物、細い路地と坂道に狭い空、混沌とした雑居ビルも、まるで映画のセットに見えた。

九龍半島南端の尖沙咀から、旺角までを彌敦道で結んだ一帯が、九龍の主要観光エリア。旅はこの旺角を拠点にしたが、下町で出くわしたローカル市場にいきなり度肝を抜かれた。やがて絞められるであろう茶色い鶏が籠の中で暴れまくり、かたわらの魚屋には海産物が所狭しと並べられ、それぞれ強烈に生の臭いを放っている。時に不快ながら、慣れない五感への刺激は旅の醍醐味で、ふいに落ちてくる雨粒や、肌にまとわりつく生温い風も、銀幕では味わえないもの。

映画の街香港の夜景

治安はいたって良く、街歩きに不安はない。地名は漢字だから一見覚えやすそうだが、未知の文字が多く、読み方も違うので、しばらくは戸惑う。尖沙咀(チムサーチョイ)、灣仔(ワンチャイ)、油麻地(ヤウマーティ)、旺角(モンコック)などなど。英語の通り名が有名なパターンもあり、中環(チョンワン / Central)、銅鑼湾(トンローワン / Causeway Bay)といった具合。ただ慣れは恐ろしいもので、数日すれば車内アナウンスで繰り返し聞く地名が耳に馴染み、いつの間にか、佐敦を「ジョーダン」としか読めなくなっている事に気づく。


【夜景と光線ショー】

香港島を対岸にして、尖沙咀プロムナードが遊歩道として整備され、毎晩20時にレーザーライトのショー(シンフォニー・オブ・ライツ)の観覧ポイントになるので、時間が迫ると大勢の人で賑わう。ショーの時間は15分程度。無料イベントな分、無料なりの規模と演出だから、期待が大きすぎると肩透かしを喰らう。とはいえ、夕涼みに集う人達のリラックス感や、スピーカーから流れる歌謡曲といった、少し非日常な雰囲気が良い。

驟雨と霧で幻想的に醸し出された夜景

夜景を間近でゆったり眺めたいなら、スターフェリーが結構お薦め。九龍半島(尖沙咀)と香港島(中環または灣仔)を結ぶ5分間の船旅で、料金は50円程度、大体10分間隔で出ており、オクトパスカードで気軽に利用できる。海峡間の移動自体はメトロの方が早く、フェリーを使う必然性は少ないが、あえてこれに乗って、港街の風景を眺めるのは、香港ならではの良い思い出になるはず。

スターフェリーの乗船しての夜景鑑賞
昔海峡を結ぶのはフェリーのみだった

中環のフェリー船着場の隣に海事博物館があり、船と貿易で発展した都市に相応しい充実した展示内容だった。佐敦駅にほど近い香港歴史博物館も、包括的に歴史と文化が紹介され、優に数時間は過ごせる規模とレベルの高さ。見学する価値あり。


【お寺と信仰】

開運は信じないし、パワースポット巡りが好きなわけでもないが、旅先では有名な寺院を回る事が多い。建築に興味はあるものの、それよりは、著名な観光地は訪れておかないと損した気分になるという、貧乏性が理由。そんなわけで、黄大仙祠文武廟を訪れた。前者は香港最大で、後者は香港最古。

黄大仙祠はメトロ駅の傍にあり、人出が多く賑わっている。境内は庭園のような趣きの一方、周囲には高層ビルが目立ち、景観のコントラストが激しい。道教の寺院だが、特定の宗教に拘っておらず、願いを叶えたい者が自由に参拝できる。この包容力と、占い手法が整っている点が、人を呼び続ける要素かもしれない。困ったとき、悩んだとき、迷ったとき、ここに来て、道筋を見出す。

見事な設えの黄大仙。紅と黄で彩られている。

占いは、箱を振って竹棒の籤を引く、半月型の木片を2つ放り投げる、の2パターン。竹棒は筮竹(ぜいちく)といって、まず質問を念じ、箱を振って籤を引き出す。そこに記された番号に付随した解釈がお告げとなる。木片は聖杯といい、地面に放った2つの表裏の組み合わせが回答。いわば遊びで、どちらもシンプル極まりなく、結果を出しやすいところがポイント。その占いが当たる(当たった)かどうかは問題ではないのだろう。

跪き用のクッションで祈り占う人たち

両膝をつき姿勢を正す為、場にはクッションが置かれ、線香を持ち祈る人、箱を振る人、皆一心不乱の様子。お供えの果物を幾つも並べる敬虔な人もいて、信じようとする力そのものにパワーを感じる。日本にもおみくじはあるが、ここまで真剣な姿は見かけない。偶々なのか年配の人が多かったが、この熱心さは寺院そのものより印象に残った。

各言語による筮竹占いの手引書

文武廟は上環駅から坂を登った所の閑静なエリアに佇んでいる。惹かれたのは、円錐形をした渦巻状線香のビジュアル。建物は古く小規模なものの、人も少なく落ち着いた雰囲気。内部は採光に乏しいが、わずかに差し込む光と、薄暗い内部に灯された光源が、得も言われぬ古色感を演出し、漂う煙と相まって、独特の風情がある。渦巻状は線香を絶やさない為の工夫だが、整然と吊るされた姿は調和していて、屋内の紅基調の色彩と金色に輝く灯りとの相性も良かった。

渦巻線香が並ぶ様が美しい文武廟
紅色基調の内部は仄かな明かりで金色がより映える

文武廟の向かい側に、古物商や土産物屋が並ぶキャット・ストリート(摩羅上街)がある。レトロ(古い)でキッチュ(安っぽい)な品物が露店に並び、ブルース・リーや毛沢東グッズに郷愁(?)を感じる一方、高級感漂う伝統文物や骨董に目を見張ったりもする。いかにも昔の中国といった家具や玩具に、不思議と香港を感じるのは、香港映画を通じて中華圏を見てきた名残だろうか。大抵はガラクタや古物なので、買い物する気は最初から無かったが、見慣れないモノが多いだけに、一種博物館的な要素があり割合楽しめた。


【石畳の坂道】

文武廟からハリウッドロードを東に歩くと、ウォールアートの注目エリアを経て、ヒルサイド・エスカレータのミッドレベルに達する。映画「恋する惑星」でのワンシーンが印象的だったが、実際乗ってみると、どこが撮影ポイントが分からず、同じエースカレーターかさえ判別できない。鑑賞中は映画の世界に没頭してるので、頭の中の映像と見た目の景色は、残念ながら別物。

ヒルサイドエースカレータを任意の場所で降りて、街歩きの起点にすると、周辺には見どころも多いし、道に迷うことも少なく効率が良い。移りゆく街並みを眺め続けていると、ロープウェイを利用している感覚にもなる。

陽射しや雨を避けられるのも便利
エースカレータは片道なので帰りは辛い

香港駅または中環駅にほど近い、石畳の坂道ポッティンジャー・ストリートも、香港を象徴する風景。歩くごとに両脇の装いが変わっていく。見所は屋台のような売店が軒を並べた箇所で、雑貨や日用品や土産物が所狭しとディスプレイされている様は、いかにもアジアという感じ。坂の高低には、生活空間の差異が反映され、上に行くごとに瀟洒になる。

香港島は坂道の街

坂の多い香港は、だからこそ発展した。そびえる山が、湾内の貿易船を台風から護る衝立になるからで、仮に英国が目をつけなくとも、いつかは中国によって開発されていただろう。ただ善し悪しはともあれ、英国という異文明が植民地化したからこそ独自性が生まれ、それが中国本体ひいては世界にも影響を与えた。

勢力ある者が高地を占めるのは自然の理で、香港島も坂を登るほど、英国人が威張っていた名残が見受けられる。その最たるものが、夜景を一望できるヴィクトリア・ピークで、ネーミングはこのままで良いのかという気もするが、成り行きに任せ切るのもまた歴史だろう。

ほぼ段差が無い階段

ポッティンジャーを登った先には、近年注目の新スポット大館が鎮座している。旧警察署と監獄を、文化と芸術のハブにリフォームした入場無料の施設。”香港警察”と記したパトカーを現地で目にした時、ジャッキーの名作「警察故事」の主題歌が脳内に響き渡り、感激を覚えたものだが、一部遺構が残る敷地内の建物と、往時を示す展示物には、ヒーロー活劇とは縁遠い、香港の治安を司った場ならではのいかめしさが漂っていた。テナントはまだ入りきっておらず、部屋数も相当多いので、ざっと回るにとどめた。

營房大樓は宿舎として活用された建物

大館から西に徒歩5分ほどに孫中山記念館があり、孫文の生涯と辛亥革命について学べる。彼が革命思想を抱いたのは、当地に漂う西洋文明の空気と無縁でなかった事を考えると、中華世界の縁に異物として存在してきた香港の、今日にまで続く意義を感じる。維新の成功体験を持つ日本の有志と孫文の交流も深く、歯車の噛み合い方によっては、日中の間柄も違った展開があり得たかも、と惜しい。

孫中山記念館は坂上から見下ろす様な洋風建築

麓まで降りて、大通りを往来するトラムに乗ってみた。細長い長方体がすれ違う姿は、香港名物の風景のひとつ。歩き疲れたので休憩も兼ねて、中環から北角までを東西往復し、街の眺めを楽しんだ。2階に席を取り、交通渋滞の中を悠然と進む。窓が開けっ放しなので、激しい雨が吹き込んでくる事もあるが、それすら情緒に感じられるから不思議。ルートは香港島の大動脈で、見晴らし自体は良くないが、あらゆる建物と店舗、トラムとすれすれに行き交う人達の日常は見ていて飽きない。

対面のバス乗客と握手できるほど近くですれ違う
車体内部は質素ながら小綺麗

トラム乗車中、お腹の具合が少し悪くなってきた。中環ならいくらでもきれいなトイレを見つけられると高を括っていたら、大型ビルのトイレに鍵が掛けられているのには困った。タダで借りるのだから文句は言えないが、開放トイレを探すのに苦労したのは誤算。あと高級ショップが入っているようなビルでも、ウォシュレットなど付いている便座は皆無。日本が特殊なだけだが。

背の高いトラムが象徴するように、スペースを空中に見出す香港の只中では、常に高層建築に囲まれるから、全体に人工的な箱庭感があり、何となく空から見下されてる感じもする。せわしげな歩行者にピッタリなのが信号音で、青色のピッピッというテンポから、赤色が近くなると、ピピピピと連続音に変わり、「早よ行け!」という声が聞こえてくかのよう。耳の残るこれのお陰で、東京や大阪はもちろん、上海など中国の大都市と比べても、慌ただしい街という印象。

公園の何気ない噴水もお洒落

もっとも、半島の先端と小島からなる都市だけに、船着き場に赴けば、周囲の群島への船便が頻繁で、海とダイレクトに繋がる独特の顔を見せてもいる。香港に来たら大抵訪れるマカオもそんな行き先のひとつ。

100年の来歴を持つ香港の象徴、尖沙咀鐘楼

再び九龍に戻る。スターフェリーの発着場の近くには、遠目にも目立つ尖沙咀鐘楼が立っている。日本軍の香港占領期の古写真にも今と同じ姿が確認できる歴史的遺産。ここからアベニュー・オブ・スターズまでが、海の景色を堪能できる定番の散歩コース。地下道に入ると、それぞれ路線が異なる尖沙咀駅と尖東駅に繋がっており、次の目的地へもアクセスし易い。


【金魚と花と鳥】

旺角の北にはユニークな問屋街が広がっていて、金魚街、花屋街、バードガーデンの3つは、フォトジェニックなスポットとして、ガイドブックに取り上げられている。ホテルから近いので散策して回った。商品の性格上、正直、旅行者が買えないものばかりで、ウロウロ観光されるのは、店側にとって迷惑な気もするが、テーマごとに店舗が一箇所に集まるエリアは、観光の見所として宣伝しやすいのだろう。

実際なかなか楽しかった。目論見通り、見栄えが良かったせいもあるが、もっと大きな理由は、生活必需品ではなかったからかもしれない。すべて生命があるから目に触れる時間は有限で、しかも大して長くない。そんな愛玩物にお金を遣う。各商店の膨大な品数からは、それらを楽しむ人々の暮らし方が垣間見え、香港人の豊かさやゆとりが感じられる気がした。

袋に記載の価格で金魚の価値を見比べる

金魚たちはビニール袋の中に収まり、整然と陳列された様が絵になっている。多種が色鮮やかにゆらゆらうごめく姿は、心和ますものがあって、値段の安さから、こんなインテリアも悪くないという気さえ起きてくる。水草など他にも色んな袋もあり、飼育道は奥が深そうで、そこにハマる人もいるのかも。

南国らしい彩りもある花屋街

花屋街は道路沿いを鮮やかに彩っている。花以外の植物も豊富。こういった類の料金には疎いが、現地の感覚でもさほど高い値段ではないとの事。きれいなものを買い求めやすいという事情は、大げさに言えば幸福度とも繋がる。この界隈を心地良く歩けたのは、そんな気分のおすそ分けだったようにも思える。

バードガーデンは前者2つと違って、においと鳴き声で野生の趣き。生きた餌(虫)が詰まった袋などは生々しく物珍しい。鳥籠がずらりと並ぶが、籠の種類にはピンキリあり、まるで画の額縁のよう。行方不明鳥を探し求める掲示板に目を引かれた。写真と共に特徴が記され、どれも報酬を明記し、飼い主の悲嘆と、愛鳥への思いが伝わってくる。商売自体は金魚と同じでも、やっぱり魚と鳥では機微が違う。にしても、よしんば見つけたとして、果たして捕まえられるものだろうか。今日なら鳥に限らず、それ目的専用のアプリなどもありそう。

どこかに飛んで行った愛鳥を探し求める貼紙

土地の狭い香港は有名スポットを回るのに1週間も要らない。なので一通り巡った後は、次どこを開拓するか、どう深堀りしていくか、どこに居心地の良さを見つけるか、に関心が移り、そこに旅の愉しみ方がある。また香港は場所柄、中継点として立ち寄る機会も多い。それゆえに発展した都市でもあり、人が密集するサイトの見所は、探せば探すほど出てくるに違いない。

カラフルなブロックのような住宅群