諸葛亮の棲家(襄陽)

【逸材の街】

襄陽に向かう列車の中で、吉川英治「三国志」の孔明出廬のくだりを読み返し、古隆中に思いを馳せた。子供の頃漫画や小説で親しんだ物語は、1,800年前の中国という別世界だったが、その現場に近づくにつれ、夢と現実が繋がるような興奮を覚えた。

諸葛亮の住まいは襄陽城西方と正史に注釈され、今日の古隆中の位置もそれに裏付く。ただ出師表には南陽の地名が出ており、これを根拠に河南省の南陽臥竜崗を比定地とする説もある。地名と領域の関係は局地戦や行政区分の再編で変わり得るが、現代の南陽の位置は当時の宛城にあたり、そこは曹操の勢力圏だったから、荊州人士と交わり、ほどなく劉備の帷幕に入る諸葛亮が居住していたとは考えにくい。やはり襄陽近郊の隆中を居住地と見るのが妥当と思う。

中国の要衝のひとつ襄陽

後漢末の戦乱で中原が荒廃すると、名士を含む多くの流民が南へ移動し、治世が良くアクセスもし易い荊州がその受け皿になった。劉備や諸葛亮もその流れでやって来た人達。太守劉表自身儒者でもあり、領内には好学の気運が満ち、必然的に人材も集まった。ただ名士のネットワークの中で、諸葛亮は知る人ぞ知る逸材という存在だったらしく、劉備は徐庶を通じてようやく彼を知っている。

公孫讃に始まり、陶謙、呂布、曹操、袁紹と群雄を渡り歩きながら、中々台頭出来ない劉備は、不器用と世渡り上手の狭間で生き残ってきた。曹操と敵対する立場上、寝返る心配が無いという事情ゆえか、荊州滞在時は襄陽の北約60kmの新野に駐屯し、北方をガードする役割を担わされる。それが当時の彼の存在価値だった。このままで良いのかという劉備の切実な自問は、やがて髀肉の嘆や三顧の礼という、情動と行動力に示されてゆく。


【古隆中へ】

武漢から襄陽までは、漢口駅〜襄陽東駅を高鉄で1時間半。襄陽東駅→襄陽駅→古隆中と路線バスを乗り継いで行く。襄陽駅から古隆中へ向かうバスは頻繁で、路線も多様だから、待ち時間は少なかったものの、市内では渋滞に足止めされ、抜けるのに時間を要した。武漢からのアクセスだと、武昌駅から襄陽駅行き直行列車もあるが、こちらは3時間以上掛かる。

漢口駅構内。高鉄乗場は広大で人も沢山。

襄陽は人口600万人の都市で、街並みは武漢と張家界の中間くらいの規模感。周辺に何も無い高鉄の襄陽東駅に対し、襄陽駅は賑やか。道が混み徐行する市バスの車窓から、路地で乱闘するおやじ達を見かけた。2人が激しく言い争ってつかみ合いになり、周囲の連中が輪に入る展開。滞在中はこういうシーンに時折出くわした。やれやれ感はあるが、一方的ではなく、お互い大声で主張をぶつけ正々堂々(?)戦うから、陰惨さが無くある意味清々しい。大抵いい年をした年配同士の喧嘩で、世代が変わるにつれ減っていく光景ではありそう。

バスは樊城区の襄陽駅から南下し、広大な漢水を渡って襄陽古城に差し掛かる。樊城と襄陽城は河を挟み北南に対面の位置関係で、関羽の于禁軍撃破と樊城攻囲戦は、折りからの漢水の氾濫を利したもの。襄陽古城から進路を真っ直ぐ西に取ると、やがて檀渓という地名が目に入り、道路名は隆中大道と変わっていく。三国志のエリアという感じがし始め、ここまで来ると郊外なのでバスはすいすい進む。

ガイドブックでよく見かける三門石坊

古隆中風景区の入場料は80元。関林廟の40元、龍門石窟の60元(冬季料金)と比較するとやや高めだが、ここまで来て踵を返す客がいるはずもなく。風景区内は観光地として整備され、漠然と思い描いていた簡素な草蘆というイメージとは乖離があった。


【有閑階級の棲家】

石牌坊をくぐると敷地は広大で、諸葛亮が一介の書生とはいえ、名家諸葛氏の恩恵に与る、それなりに優雅な身分だった事が実感された。後見人だった叔父は劉表と旧知の仲で、叔父の不慮の死後も庇護があったらしく、それは襄陽城近い地に住んでいた事からも窺える。劉表の長男劉琦が諸葛亮に身の上を相談したのも、そんな縁によるものだろう。なぜ密談が史書に載ったのかはさて置き、御曹司と会話できる間柄ではあった。

山林の所々に旧跡を見つけていく

丘陵地の園内は豊かな山林で、全般に落ち着いた雰囲気が漂っている。当地の建物は明清代のものだが、武侯祠などは東晋代に建設が始まっており、諸葛亮の故地は三国終焉後ほどない時期から、人々に大切に扱われてきたようだ。晋の始祖司馬懿の宿敵だったにも関わらず。

諸葛亮は法に厳正だったが、常に筋が通っており、対立する人にさえ信頼されたという。1,800年間尊崇されてきたのは、講談で活躍する大軍師としてより、そんな政治家が稀有だったからかもしれない。

呉に渡った兄諸葛瑾と離別し荊州に腰を据えたのは、劉備たち義兄弟が常に行動を共にしたのに比べると、血に頼らない乱世の処世術が対照的。どうやら諸葛亮には自信と自負があったらしい。名士や学友との交流を通じて自らの力量を計り、その結論が、門を閉じ晴耕雨読の生活に入ることだった。

とはいえ、襄陽は数年後曹操に支配される運命にあったから、もし劉備の存在が無ければどうなっていたか。呉に移住したか、魏に出仕したか、それとも田夫であり続けていたか。人が野に埋もれるか、青史に名を留めるかは、際どい偶然の賜物と思える。世界にはきっと、埋もれたままに終わった無数の諸葛亮がいたに違いない。


【草蘆のできごと】

三国志演義の三顧の礼は、作者達が入念に描いた名場面で、個人的にもっとも好きな箇所のひとつだ。そのくだりは、劉備が檀渓を跳び蔡瑁の襲撃から逃れた際、水鏡先生の庵で伏龍と鳳雛の噂を聞くところから始まる。

人材獲得の動機を得た劉備だが、孔明はまだ表舞台には現れず、まず脇役として徐庶を登場させ、彼の鮮やかな采配を通じて、軍師の重要性を劉備(と読者)に知らしめる。ほどなく曹操の奸計に陥った徐庶が去る際、彼を遥かに超える大才として、ようやく存在が明らかにされる。が、予め旧主に渡りをつけようとした徐庶を、孔明はにべもなく撥ねつける。大まかに史実に沿いつつ、徐々に主役のベールを剥がしていく様が上手い。

章後半は焦らしと口説きのパート。自ら訪い招聘する決意の劉備は、1度目は門童、2度目は実弟に会えただけで、都度引き返さざるを得ない。往復路においては、酒屋や住民の謡など詩文を挟み雰囲気が彩られ、次々に出会う文人たちとの交流で、愈々孔明への思いを強くする。2度目は雪吹雪、3度目は初春と、情景の描写もメリハリが効いて美しい。

とうとうその人に辿り着き、午睡の孔明を、室外でじっと待つ劉備の佇まいは、草廬三顧を象徴するシーンで、賢才を得るに辞を低くする姿は、今日に通じるリーダーのひとつの理想像。

隆中対の現場に建てられた三顧堂

立ち寄った土産物屋で、94年の中国ドラマ「三国志演義」の隆中対のシーンが流れていた。すでに大宰相の風格で堂々と天下三分の計を説くも、俗世に出て利を求めるを拒む孔明。だが民を思う劉備に真心を打たれ、ついに起ち上がることを決意する。涙で人を動かすところに、お約束感満開ではあるが、熱意がものを言ったのは確かだろう。真打ちの登場に相応しい章運びで、壮大な物語もここから新局面を迎える。

草廬三顧の信憑性については、諸葛亮自ら出師表で明言している以上、事実と見て良い。三は具体的な回数というより、それほど礼を尽くしたという解釈が無難。新野から隆中までは約70km離れており、「行ったら、いなかった」で済む距離ではなく、事前に面会の約束を取ったと考えるのが自然。諸葛亮は当初それを断っていたか、会ったにせよ、少なくとも一度では結論を出さなかったと思われる。演義での対面場面でも、孔明は一旦、自分は分を守りたいと辞退するが、案外実情を反映しているかもしれない。

この間、諸葛亮も劉備という人物を見極めていた。将来性や才能を活かせるかの観点もさることながら、荊州前線で曹操軍と対峙する(=負ける)だろう劉備への出仕は、危険な選択でもあった。当時すでに27歳。強いて仕官してこなかったのは、田園生活をそれなりに受け入れてもいた、と見えなくもない。安請け合いで軽職を得るよりは、隠者として暮らす方が遥かに良いと。徐庶が諸葛亮を推薦した時、出向く必要があると進言したのは、その辺が理由かもしれず、実際ほかのスカウトを無視した事もあったのかもしれない。

諦めずに誠意を示し続け、招聘に成功した劉備の態度は、後世語り継がれたが、その時の諸葛亮の心中は、彼自ら筆を執った出師表から汲み取る事ができる。形式と修辞はあるにせよ、文章はやはりその人を雄弁に語っていると思う。以下抜粋。


(原文)
臣本布衣、躬耕於南陽、
苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、
三顧臣草廬之中、
諮臣以当世之事。
由是感激、遂許先帝以駆馳。

(意訳)
元来、仕官もせず田畑を耕し、世を全うするのが精々で、出世も求めなかった。
先帝は身分の違いを顧みず、三度も訪問下さり、世をどうすべきか問われた。
私はこれに感激し、先帝のもとで大いに働くことを決意した。


文章は全般に先君の遺徳を強調し、現主への訓戒を含む内容となっているが、当時大権を握っていた諸葛亮が、自ら過去の隠棲生活に触れるあたりには、衒わない人柄が出ている気もする。礼を尽くし招聘してくれた感動は一生ものだったようで、結語でその心情を吐露し、表が締め括られている。


(原文)
臣不勝受恩感激、今当遠離、臨表涕泣、不知所伝。

(意訳)
臣は恩を受け感激にたえず、今遠く離れるにあたり、表に臨んで涙が流れ、言うところを知らず。


諸葛亮は出廬以降、54歳で死去するまで、仕事に没頭し続けた。のち襄陽は敵領となった為、彼が隆中に帰ることは無かった。


【隆中の風景】

三顧堂のそばには六角井という、東晋代の記録にも見える古井戸があり、草蘆の推定地を示す有力な証拠となっている。隆中一帯の建築物は明代に陵墓が造られた際、取り壊されてしまったが、にわかに信じ難い話ながら、それまでは諸葛亮と劉備が対面した当時の建物さえ残っていたという。幸いその後、旧跡を復活させる運動が起こり、今日の史跡はその頃の姿を留めている。

三顧堂の内部。隆中対の記念堂。

門をくぐると中庭が広く、その奥に名場面の記念堂が建つ。再現塑像は相変わらずクオリティが低いものの、清掃は行き届いている印象で、全体の清潔感が古隆中という旧跡らしさに思えた。周囲が山林という事もあり、三国志の著名な観光地の中では、最もいにしえの雰囲気を偲べる地と言えそうで、かつてここで劉備と諸葛亮が対話したのだと思うと、彼らが身近にさえ感じられてくる。暫く佇んで堪能した。

三顧堂の中庭から門を望む

時期は12月末だったが、気温は10℃前後で、適度に歩くから、普段の冬着で寒さはまったく感じなかった。木々の緑も温もりを醸し出し、雪吹雪の中、張飛が早く帰りたいと騒いで叱られる場面と、そう変わらない季節なのを忘れるほど。もっとも雪景色の隆中は、今日でも詩になりそうなほど風情があるかもしれない。

諸葛亮の旧居跡とされる草蘆亭

景観区内には、諸葛亮にまつわるスポットが幾つか設けられ、それらを回ることで、三国志演義を追体験できる。小虹橋は、劉備一行が諸葛亮の舅黄承彦と出会った場所。舞台設定にあえて小橋を用いたのを見ると、演義の作者(の誰か)は、実際に隆中を訪れた事があったと思しい。この黄承彦は太守劉表と重臣蔡瑁の義理の兄に当たり、また諸葛家も名士龐徳公と縁戚関係にあった。そもそも劉備が何の事績もない諸葛亮にこだわったのは、未知数の力量より、この閨閥の慥かさだったと思われる。この観点でいけば、劉備が黄承彦と出会うエピソードが盛り込まれたのは、図らずも意義深い。

枯れた小川に架かる小虹橋

諸葛亮が幕下についた事により、劉備は一客将以上の信用を荊州内で獲得する。それは流亡の雇われ軍人から、既存の体制や価値観の守護者へと、評価がランクアップした事を意味した。ここから蜀漢皇帝への道のりに一本の筋が通る。はるか後年、一反乱勢力に過ぎなかった朱元璋が、浙江周辺の賢人の招聘によって面目を一新し、明創業の端緒になった例もあり、中国における士大夫層の影響力を感じる。

実利面では、諸葛亮を通じて資金繰りも効くようになった。かつて義勇兵を起こす際、大商人がスポンサーについたり、徐州で資産家の麋兄弟と繋がったりと、劉備には常に金回りの良さがあり、これは彼が生き残れた重要な要因の一つだった。無論それは、人徳と呼べる才覚だろう。

便利ながら誤訳だらけの案内標識

山林には所々に案内標識が立ち、迷う心配は無い。ただし、草蘆=わら、抱膝亭=膝を抱いて亭、など、ここも訳語が酷い。そもそも訳さなくていい。日本人観光客を見込んで付記したのだろうが、誰も監修しなかったのは惜しい。

古隆中はゆっくり見回って2時間といったところ。市中に戻るバス本数はわりと頻繁なので、時間を気にせず自分のペースで楽しむことが出来た。隆中は草木茫々なところがかえって味わいがあったので、願わくば興を削ぐような演出や開発は避けてほしい。小規模でも質の高い資料館などあれば、訪問価値もさらに高まるように感じた。


【襄陽の街並み】

古隆中からは駅に直行せず、襄陽城散策のため十字街バス停で降りた。歩いて数分の所に襄陽博物館が入っている昭明台がある。位置的には濠(襄水)に囲まれた城市の、やや西寄りの中心。隆中から約14km、車なら20分程度だがバスだと1時間弱。襄陽城から草蘆への訪問は、徒歩で間に合うし、馬なら日帰りも可能な距離だった事が分かる。

無料の博物館は充実していたけど、ぼちぼち帰路も気になったので、手早く済ませた。ここから北へ一直線に古城街道が伸び、漢水に面する臨漢門に達する。博物館望楼からの北街の眺めは、大気汚染で霞んでいたものの、臨漢門まではうっすら視認でき、麓の伝統建築と合わせた景観には、中国らしい趣きがあった。

襄陽城市街を北に望む。一番奥が臨漢門。

臨漢門への道すがらは、商店や食事処が立ち並び、車も通らず、何となく日本の参道の賑わいを思い出させた。道両側の建物には統一感があり、テナントは都市で見かけるような店舗も多く、遠景ほど古びた感じは無い。やがて風格ある臨漢門に到達し、漢水が前方に開けた。かつては樊城が対岸にあったが、都市開発によって現存していない。こちら側の襄陽は、それが遅れたことにより、かえって景観が保たれた。

所々に碑坊が建つ。その向こうは昭明台。

城壁は劉表が建造し、幾度となく修復され、明代のものが今日遺っている。その姿は横山光輝「三国志」で描かれる城門そのままで、恐らく資料の1つとして用いられたのだろう。実際は漢代はおろか元代まで土壁だったので、違った光景だったはずだが、漫画のイメージが強かった分、リアルなビジュアルを眼前にして結構満足。

もとは小北門といった臨感門。城楼は清代建造。

劉表のあとを継いだ劉琮が曹操に降伏すると、前線にいた劉備は慌てて南下し襄陽に至るが、抗戦派の彼らは当然入城を拒否される。11年後、関羽は当地を攻め立てる事になるが、かつて逃避行時に黙殺された因縁が、彼の頭をよぎったかもしれない。襄陽城と樊城の間を流れる漢水の幅は約400mもあり、現地に立つと、関羽の戦いはかなり大掛かりだった事が体感できる。

漢水に架かる襄樊漢江長虹大橋を望む

それをはるかに上回る激戦が、13世紀モンゴルと南宋との間に行われた。5年に及んだクビライの襄陽作戦がそれで、開封を拠点とした大規模な兵站や水軍の建設が、襄樊を攻囲するという持久戦を可能にし、最終的には回回砲という強力な石射機が勝敗を決した。壮大な攻城戦や、新兵器投入による開城は、三百数十年後の秀吉の小田原攻めや、家康の大坂攻めを想起させるし、圧倒的物量と科学兵器を用いたねじ伏せは、太平洋戦争の結末にも通じる。ユーラシアを制覇した民族はスケールが違う。

モンゴルの凄さは、城も海も無い草原の民が、必要とあらば攻城兵器も船も短期間で準備し運用してしまうところ。世界制覇の原動力は騎兵の威力だったが、必ずしもその戦法に固執せず、状況に応じて都度対応を変え、また改善してゆく柔軟性と実行力に真の強さがあった。それは軍事面だけでなく、政治組織や交易政策などにも同じことが言える。のち元を滅ぼした明などは、長期の安定をもたらしたとはいえ、全般に保守的な性向を持ち、欧州の興隆と相対的に東アジアの停滞を招いた。歴史の巡り合わせという感がある。


【空港を走る】

帰国の朝、武漢の空は青かった。出歩かない日に限って清浄な空気でも仕方ない、とは思ったが、また中国に来いと言われてるのだと受け取った。帰路は福州経由で関空に向かう。あいにく福州行きのフライトが遅延していた。乗継時間を圧迫しそうだったが、どうせそこでも遅延だろうと高を括っていたら、福州空港で、乗客名を記したカードをかざした女性職員の出迎えを受け、こちらは定刻で離陸するからとダッシュを命じられた。案内の為に職員も走る。

走りながら無線機で連絡を入れ、次の職員に引き継ぎ。さらに走り検査場まで来ると、男性職員がパスポートを引き取って手続きに回り、自分はその間に手荷物と身体検査を済ませ、そこでパスポートと搭乗券を手渡された。一分の無駄も無い流れるような連続技のお陰で、無事大阪行きの便に着席。最前の機体を出てから10数分しか経っておらず、乗継に要した最短記録になるだろう。

いつものことだが、大晦日の機内はガラ空き。大阪から乗った電車が地元に近づき、乗り込んできた女子大生を目の前にすると、あれっと違和感があり、すぐそれがメイクのせいだと気がついた。日本と中国の若い女性の化粧っ気は大分違う。平たく言えば、向こうはより素顔に近く、それに見慣れていたから、こちらがふと濃く感じられたのだ。勿論、中国は広い。見てきたのは、西安、張家界、荊州であって、北京や上海や広州ではないし、見た範囲も限られていたから、単純な比較など出来るはずもない。

(2015/12/29)