漢代のミイラ(荊州 2)

【2,100年前の人】

荊州古城内は築何百年かという位、年季の入った住居をよく見かけ、博物館に近い三義街の老朽ぶりたるや、煉瓦と石壁は煤け、扉の開いた内装と家具の古さもすさまじい。

それでも食堂や床屋は営業している様で、ひと気無く静まり返ってはいるが、生活の息吹は感じられる。あまりのインパクトに写真を撮りたい誘惑に駆られたが、現役の民家に失礼だと考え直した。

あとで中国語サイトを調べたら、昨日訪れた南門近辺にも老街区があり、劣悪な生活環境、建物や壁の破損と崩壊の危険性、インフラ全般の老朽化など、課題山積みとのこと。

1958年設立の荊州博物館

荊州博物館は無料。興味深かったのは大量の竹簡で、ちゃんと墨文字も判別できる。二千年間データ保存されたメディアは薄くて細長く、一部ちぎれているものもある。この位ペラペラで軽くなければ、必要分量の情報など持ち運べなかったのだろう。

今後も膨大な竹簡資料が出土されると言われ、新たな史実も出てくるに違いない。木や竹は残るが、綴じ糸は朽ちるので、バラバラになったものを人力で整理するのは大変。そのうち全てデジタル化して、AIに管理させる事になるかも。

ミイラは別館「珍品館」にあり、階下を見下ろす形で展示されている。前漢時代の県令クラスの男性で60歳前後に死亡、紀元前167年埋葬。まず思ったより大柄なのに驚いた。身長167cmで体重52kgだが、実際はそれ以上に見える。

湿屍体のいまだ弾力ある肉体は赤身で、所々がふやけて白い。半開きの口からのぞく歯は健康的で生前の姿を髣髴させる。発見後解剖されており、脳と内臓がかたわらの箱にそれぞれ分けてある。じっくり見ているうち、かつて生きていた人物というより、不謹慎ながら、肉屋に吊り下げられた物を連想せずにいられなかった。うぅと気分が悪くなる。

展示室には解剖時の写真パネルもあって、即ち検死の情景なので生々しい。中国の博物館は全般に、出土当時や調査などの記録写真、解説パネルが充実していて、外国人にもわかり易かった。

墓室は地下10mにあり、三重構造で密封された棺の中は、薬草が染みた液体に満たされていたという。墓はタイムカプセルの役割を果たし、副葬の漆器や装飾品は保存状態が良く、2,100年前のものという実感が湧かないほど。王侯クラスでもない地位の人物が、これほどの技術を用いて丁重に埋葬されたのは、この地がそれほど豊かで進んでいたという事だろうか。


【失敗の関羽】

城内西端の博物館から北東に歩くと大北門が構え、濠の渡しには得勝橋が架けられている。関羽が常に勝ちを得て帰還した橋というのが名の由来だが、関羽駐屯時近辺で戦闘があったとしても、服従しない小勢力の掃討程度だったと思われる。彼が江陵から最後に出陣したのは、219年の樊城・襄陽方面への北征で、そのまま還ることは無かった。

古めかしい荊州城大北門

荊州を任されていた関羽の出撃は、劉備の漢中平定に呼応したものとされる。負け続けてきた劉備が、初めて真っ向勝負で曹操を破り、漢中王を名乗った頃が彼の絶頂期で、一方曹操は約半年後に病死するだけに、既にかなり衰えていたのかもしれない。高祖劉邦が漢中より興った故事もあり、もし関羽が許昌まで進出し、その時期に曹操が死ぬような事態になっておれば、果たしてどうなっていたか。

ただ成就の前提条件として、呉との協力関係が不可欠だった。ここが三つ巴の妙で、関羽の北上に対し、魏は呉に荊州を衝くよう働きかける。この時孫権には、最大の敵を滅ぼす好機として、むしろ魏に攻め入る選択が無くはなかった。力にばらつきある三者の喧嘩は、まず最強者を2人掛かりで倒すのが鉄則。けれど彼が下した決断は、長年狙っていた荊州への侵攻。そんな事態にならぬよう、荊州を預かる関羽は呉との同盟こそ、堅持しなければならなかった。が、実際はその逆だった。

大北門楼閣に通じる大階段

呉の魯粛が荊州を貸与してまでも劉備との協調を優先したのは、呉一国では魏に対抗できない為、第三勢力を置くことで魏を牽制する意図によった。事実、劉備が漢中まで進出し曹操と対峙した状況は、北からの圧迫を減じたことで孫権を有利にした。このあたり、大勢力が3つに纏まりつつある中、外交の重要性が増していた状況が見て取れる。三国鼎立は成り行きではなく、呉と蜀の最適解としてデザインされ、その結び目こそ荊州(問題)だった。

関羽は劉備一番の部下なので、最重要地域の荊州に配したのは、彼として当然の人事ではあった。ただ孫権との婚姻政策を足蹴にした外交の失敗に見られるように、適切な人事ではなかった。のちに露わになる内部不協和も方面担当者としては失点。急膨張した劉備陣営だけに、人の和や適材適所が追いつかなかったのかも。

ともあれ、孫権は関羽の北上を、曹操の窮地ではなく、荊州奪還の好機ととらえた。しかし、この破局は結局劉備の死まで続いてしまうので、呉か蜀による天下統一が潰えた決断ともなった。やはり呉の本質は江南の地方政権だったのだろう。

凱旋の兵士を迎えたという得勝橋

横山光輝「三国志」での関羽の最期をめぐるくだりは、吉川英治の”原作”ありきとはいえ、長い物語の中、秀逸な部分のひとつ。堂々出撃し、于禁を破って樊城を包囲、かつ狼煙台で背後の守りも怠らない名将ぶり、これを攻略しようとする呂蒙と陸遜の智略、そして桃園の誓いの終焉。概ね史実にも沿い、ドキュメンタリー風の展開に栄枯盛衰が詰まっている。自信に満ちていた関羽がやがて愕然とする様、また敵方の呂蒙も当初は焦りがあり、局面の変化も面白い。個人的にこの頃の絵のタッチも好きで、作者の脂が乗っていた時期と思う。

ストーリーにある通り、関羽軍に付き従っていたのは、ここ江陵の人々。距離は遠いが、襄陽と樊城ももともと同じ領内だし、蜀魏あるいは呉蜀の戦争といっても、兵士からすると近隣住民との戦いだった。紛争地域ならではの悲劇も少なくなかっただろう。

関羽の樊城包囲戦は兵士も兵糧も足りなかったらしく、上庸の劉封と孟達(彼ら同士も不和だった)に援兵を要請したり、留守軍を招集したり、兵糧は呉の領土から奪いもしている。上庸は実際に平定直後で治まりきっておらず、留守を預かる糜芳や士仁たちとは摩擦があり、関羽の戦いには少し無理があったようだ。

かつて孫策が勢力拡大のさなか暗殺されたり、曹操が河北と荊州を平定後に大敗したりと、急成長に潜む落とし穴に三国志の英雄たちが陥るところに、教訓が見出だせなくもない。

得勝橋上からの風景

呂蒙による江陵陥落後、孫権自らこの地に進駐し陣頭指揮を取っている。曹操と劉備は言うに及ばず、のちの曹丕や曹叡もいざという時は、前線近くに出向いており、危急時における君主の役割を見る思いがする。日清戦争時、広島の大本営に明治天皇が滞在した例もある。

魏の徐晃に敗れ、荊州南群も失った関羽は西の蜀方面へ逃れるが、先回りした呉軍に捕まり、あえない最後を遂げた。樊城攻囲が8月で死去が12月だからまさに急転直下。呉の周到な準備が、速やかな戦闘遂行と処理を可能にしたと言えそうだ。孫権は荊州を平定し、ようやく赤壁の戦果を得た気分だったに違いない。


【鴨の霊】

得勝橋の周辺は寂びた風情があったが、大きな野犬がうろつき、散策は断念。大北門は入場料10元取られたが、特に見るべきものは無し。城内西北にある名ばかりの三国公園から市バスで荊州駅に向かった。25路または32路で20分ほど。鉄道で再び漢口駅に戻る。高鉄(G列車)の次に速い動車(D列車)で、ほぼ真東に約200km、約1時間半、約1,200円。

洋風の漢口駅

漢口駅近くにある、いつもの錦江之星に赴くと、予約が入ってないと言うので、再確認すると間抜けにも江城之星を間違えて取っていた。所在地は駅敷地内だが、マップに示された位置が漠然として分かり辛く困っていると、レセプションの女の子達は、無関係の訪問者のために、あれこれ調べ説明を試みてくれた。感謝。結局そこは駅併設のホテルだった。

翌日の夜、駅そばの「周黒鴨」なる店で夜食を買った。鴨肉をタレで煮付けた武漢名物で、黄色基調のポップなパッケージが特徴的。これを持ち込む乗客を高鉄でよく見かけ、美味そうだったので、試してみることに。幾つか種類があるようだったが、やや丸みある形が透けて見えたモノを適当に選んだ。肉付きよく美味しい部位だろう。ちゃんと手袋を付けてくれる配慮は、さすが列車内でも食されるだけあって、行き届いたものを感じる。

部屋に戻り、さっそく上蓋を剥がすと、「あぁ...」現れた中身に思わず嘆声。鴨の首が3つ、無念の表情で並んでいる。丸く見えたのは後頭部だった。嘴と頭蓋骨ばかりで、齧り付く箇所さえ無さそうで、削ぎ落としていく感覚か。反射的に無理と思ったが、食べ物を食べずに捨てるのにも強い抵抗感があり、こうなった以上生命を美味しく戴くのは義務だと自らを奮い立たせた。鴨の頭なんて触ったこともないから、色んな角度からがっちり掴むのさえ珍奇な体験。味は少々ピリ辛で、滋味がある。ビールのつまみに合いそうだが、この時はそれどころではなかった。ようやく食べ終えた時、小さな試練が済んだ気分がした。

深層心理にこたえるものがあったのか、数日後の正月、実家で鴨鍋をつついた際、皿に並んだ赤い鴨肉が、鴨首の体験を連想させ、生身のミイラのイメージがそれに絡まり、胸が悪くなった。そのあとは平気だったが、ある日、うどん屋で鴨南蛮を食べた日の夜中、猛烈な吐き気に襲われ、胃腸を壊し、寝込んだ事があった。それ以降、鴨は食べられなくなった。

(2015/12/29)