関羽を祀る街(荊州 1)

【荊州へ】

大昔の戦争は大抵そうだが、赤壁の戦いも詳細は分かっておらず、そこに想像を膨らませる余地がある。演義ではこの戦を物語のハイライトに位置付け、創作を巧みに織り込み、虚々実々の駆け引きを展開、役者も勢揃いしそれぞれの知勇が激突する、三国志一番の読みどころになっている。

当初この赤壁の古戦場を訪れるつもりだったけど、よく考えると、今日当時を偲ばせるものは河の流れだけ。近年テーマパーク化された失望もあり、代わりに荊州を回る事にした。

主要な争地となった荊州

早朝に張家界を発てば、昼過ぎには荊州に着く。張家界から武漢へのフライト80分、武漢空港から漢口駅までバス40分、漢口駅から荊州駅までD列車で80分。荊州で1泊したのち襄陽に向かうつもりが、荊州〜襄陽間が案外不便なので、翌日一旦武漢に戻ってから、襄陽を日帰りする旅程。

漢口駅で荊州駅行きの列車を待つ

今日荊州と呼称している街はかつての江陵。春秋時代以来の古都で、戦国時代は楚の都だった。位置は長江の中流、襄陽からほぼ真南200km。赤壁の戦い後、紆余曲折を経て劉備の勢力圏に入り、劉備入蜀後は関羽が駐屯した。荊州の北端は魏都許昌に近く、呉蜀間の領有問題を抱えたこの城市の争奪戦は、三国の趨勢を大きく左右することになった。

主な見どころは風情ある荊州古城と、前漢時代の生々しいミイラを展示する荊州博物館で、古城は河と城壁に囲まれた旧市街の趣き。荊州駅に着いた後、市バスで城内に向かい投宿。すぐ散策に出たが閑散ぶりには戸惑った。路地には人影さえ無く、中国の街でこれほど静かな環境は初めて。一部住居は甚だしく老朽化し、経済発展とは無縁の、時間が止まったような雰囲気があった。

分かりやすい荊州古城旅遊図

濠となる河と石累の城壁が護る荊州城内は、南北縦に約2km、東西横に約4kmとコンパクトで、だから域内のどこからでも城壁に近い。南門付近は住民の憩いの広場になっていて、皆思い思いにのんびり時を過ごしている。目的の関帝廟よりその光景に惹かれた。

関羽が居た地の本家関帝廟

フォークダンスを舞う年配の一団が懐かしげな歌謡曲で踊る姿はまさに古き良き中国。広場での舞踊は文革に影響された世代の集団行動に通じるらしく、騒音や人数が周辺住民と軋轢を生む事もあるとのこと。けどここでのそれはまったく穏やかだった。


印象深いのはストリート書道の達人。長い柄の付いた筆に水を含ませ、正方形のタイル上に詩文を一文字ずつ書してゆく。筆先まで距離があり、一見バランスが難しそうだが、筆の運びはよどみなく、筆圧も自在にコントロールされ、連ねた文字に一つの乱れも無い。


見物人たちは、書の批評か詩文の鑑賞か、しきりと話し合い、自分も感心のあまり見入っていたが、達人は気にもとめずに黙々と、淡々と筆を進める。書き終えた文字は、時間の経ったものから乾いて消えてゆく。それも芸術的。


【逃避行の劉備】

門をくぐり城外に出ると催し物でにぎやかだった。皆中高年で寛いだ空気に良い意味での田舎を感じる。城壁と濠の間には植樹された遊歩道も整備され散歩しやすい。かつて古代の重要拠点だったとは想像しにくい長閑さ。休憩がてら景色を眺め、関羽の頃から不変なのは何かと想像した時、河と街との位置関係に違いないと、当然の結論に至った。

荊州城の水濠

この古城から望む事はできないが、江陵のすぐ南には長江が流れている。208年夏、曹操の荊州侵攻に対し、襄陽入城を拒絶された劉備は南のここ江陵を目指すが、途中長坂坡で敗れ、水路で東の夏口へ逃れた。自ら追撃戦の指揮を取った曹操はこれを追わず、そのまま南下し江陵を確保。同年冬ここから長江を下り、長江を遡ってきた周瑜と赤壁で相見える運命を待つ。

城壁に沿って遊歩道が整備されている

壊乱したとは言え、撤退戦を成功させた劉備の生命力も大したもので、一口に逃走といっても、襄陽方面から長坂を経て夏口まで400km以上あり、途中漢水を利したとしても、生半可な距離ではない。

この時すでに47歳の初老。生涯の移動距離は曹操も相当だが、侵攻ではなく常に逃避行だった劉備の方が条件は当然厳しく、相当頑健な身体だったと思われる。もっとも彼の妻妾は、過去には呂布や曹操の虜になり、この時も夫に捨てられ逃げ惑うなどさらに悲惨。負けた側の婦女子すべてに言えることではあるが。

劉備はこの時住民を道連れにしたが、後年曹操が漢中の住民を長安に移住させた事例もあり、人減らしは占領軍を困らせる定石だったのかもしれない。自然災害と戦乱で人口が激減し、人口=国力だった当時、強制を伴う集団移民は珍しくなかった。ただし長坂坡で離散した移民たちがその後どうなったか、それを語る史料を見たことは無い。

この最大の危難を乗り切った後、劉備の運勢はようやく開け始めるが、高齢と苦境から帝業を成したキャリアアップは高祖劉邦と類似点がある。この時代までは(秦を別にすれば)皇位は劉氏だけのもので、そのステータスは依然高く、現に荊州も益州も劉氏が治めていた。自称末裔とはいえ、実力さえ伴えば周囲も糾合し推戴しやすくなり、彼のポジションは領土が拡大するごとに急上昇した。

とはいえ大陸でのし上がるには、シニアになっても広大なエリアを移動し、生死を分ける決断をし続け、最後まで生き残る業を求められた。劉備は自ら選んだ道とはいえ、死ぬ間際まで戦い、遠征先で生涯を終えた。こんな厳しい過程を経て頂点(地方政権とはいえ)まで登りつめた人物の例は日本史に無く、英雄の必要条件は、国の地理が多大に影響するように思える。

のどかな荊州城の周回コース


【赤壁の戦い】

曹操が南下を決断したタイミングは、劉表の病状と無縁ではなかった筈だ。お誂え向きにお家騒動まで抱えており、攻めてくれと言わんばかりの状況。ただし好事魔多し、この機を逃さじとするあまり、神速が拙速に転じたきらいがある。

前年には烏桓討伐で過酷な北征を敢行しており、その後休む間も無い南征だった。烏桓の戦場は本拠地から遥か遠く、厳しい自然環境のなか補給線も伸び切り、行軍すら困難を極めた。そんな苦戦から1年も経たずに始めた荊州侵攻。もし劉表が健常だったら、江南攻略戦はもう少し先だったのではないか。

川向うの素朴な感じの街並み

もっとも曹操は荊州併呑までは見込みがついていた。朝廷に任官され赴任した劉表は、領内では地元豪族との協調が欠かせず、有力な蔡氏との婚姻関係もその一環だった。曹操は蔡瑁と誼みがあり、荊州の内情をよく把握していたと思われ、結局劉表の死後、出来レースの様に家臣の意見が一致し降伏が決まっている。益州の劉璋は既に援兵に応じていたし、江東も国論が割れていたので、戦わずして事実上の統一が成功する可能性はあった。

荊州同様、豪族の影響力が強かった江東も降伏論は根強かった。兵力で劣る上、恭順しても自分たちの地位は保証されるだろうから、元々戦う理由が乏しい。

ただ孫氏のケースが決定的に違ったのは、江東が朝廷からの任官の地ではなく、自ら切り取った領土だったこと。つまり血で購ったものは易々とは手放せない力学が働いた。演義では諸葛亮が大論陣をはって開戦へと導くが、それは創作としても、抗戦派が彼を通じて荊州や曹軍の内情を知り、判断材料にしたというのはあり得る。

孫権が抗戦姿勢を取った上は、曹操は短期決着を期する他なかった。都を長く空けるわけにいかず、兵士の疲弊は増し、風土病は蔓延、かつ孫権の根拠地建業は長江の遥か彼方。赤壁で一敗地にまみれた時点で、あっさり北へ去ったのは、ダメージもさる事ながら、遠征の見切り時と正しく判断したため。

赤壁の戦いの行軍図 ※Wikipediaより

個人的には黄蓋の偽降に引っ掛かる所は興味深い。曹操がかつて袁紹陣内に残された内通書簡を焼いたエピソードにもあるように、呉の有力者たちからも内応の打診があった事は想像に難くない。黄蓋の投降を信じた時、かつて許攸の投降をきっかけに、袁紹に勝った経験を思い起こしただろうし、早めに事態を打破したい実情も背を押したはず。火攻めを喰らう直前が、曹操の中でもっとも天下統一に近づいた瞬間だった。

曹操、周瑜、関羽、呂蒙、孫権などが駐留した江陵

敗走の曹操は一旦江陵に退避したのち華北に帰還した。勢いに乗る呉軍は江陵を陥落させるも、襄陽以北への進出は失敗。なので魏としては荊州北部を確保し、根拠地許昌との間に緩衝地帯を得ただけでも、一応南征の戦果はあったと言える。カオス化した状況を享受したのは第三勢力の劉備で、赤壁後、江陵の対岸に位置する公安を根拠とし、荊州南郡を切り取っていく。これが三国鼎立のスタートとなり、荊州情勢は魏呉蜀の縮図となった。


【古城を歩く】

中国の史跡は、城壁にしろ建築物にしろ、明清代のものが多く、荊州古城もその例に漏れない。そもそも三国時代の城壁は版築や土塁だった。それでも数百年前の姿を留めているのは貴重で、東門から入場できる城壁上に登ってみる。超がつくほど巨大な西安のそれに比べて、小規模なだけ城のかたちを把握しやすい。

敵を封じ込めて一網打尽にする半円城郭

魏呉蜀いずれかに一度は占有された分、江陵ほど三国各勢力の要人が滞在した拠点も珍しい。また長い歴史の中では善政を敷いた領主もいた事だろう。そのわりに今日の江陵は関羽のみ讃え、関帝廟を拵え、英雄神として祀っている。荊州陥落時は呂蒙による占拠と鎮撫で、(民衆や兵士に責は無いとはいえ)間接的に関羽を追い詰めてさえいるのに、後世はちゃっかり関帝信仰に乗っかった観も。

楼閣内に展示の劉備一党

城壁上の遊歩道は歩きやすく、傍らの草木が枯れた城に似合っている。胸壁の足元には一定間隔で銃眼と思しき小穴が設けられている。日本の城は間口が広く銃口の狭いつくりだが、こちらは敵方から丸見えの正方形型。穴の位置上這っての射撃になるから、銃装備が前提だった模様。

銃眼から望む楼閣
胸壁凸部分の足元に並ぶ銃眼

対岸の市街は高層建築が立ち並び、橋を渡った多くの車が流れ込んでいくのが見える。古城内は城壁こそ趣があるものの、外界は地方都市の顔。東門の見学エリアにある広場で、時代劇かイベントかのリハーサルに出くわした。矛を携えてるので戦闘シーンらしいが、掛け声に応じて所作する様子はマスゲームに近い。


緊張感の無いアクションが展開されてたが、見物人は釘付けで、身を乗り出して見入っている様子が微笑ましい。城壁を降りたら騎乗の武将役に出くわし、その瞬間馬の蹄が石畳でつるりと滑って馬体がぐらり傾いた。あわや転倒落馬のところ、ぐっと持ち直し事なきを得た。ひと安心。

撮影風景を熱心に見入る荊州の民衆

街の売店で買い物した際、店員さんにどこから来たか尋ねられた。今回旅先で見かける外国人は、韓国人が圧倒的に多く、自分も度々そう間違われた。だけに先方には物珍しさが見受けられが、対応はいたって好意的。ふと以前杭州滞在時、小売店でオレオ風のクッキーを買ったのを思い出した。黒いビスケットに白いクリームを挟むから、黒白黒黒白黒と縦に並ぶはずが、包装の中身は黒白黒白黒白...とループしていて、食べるのに苦労した。あんなまがい物も今は懐かしい。

路駐が歩道を占め、車道が歩行路に。

歩きながら、食事できる店を探したが、中々見当たらなかった。昔中国で集団食中毒にあった経験から、ローカル色が強い食堂に入る勇気も無い。旅行者が見当たらない素朴な街並みはひたすら平穏だった。

(2015/12/28)