【綱渡り】
武陵源という呼称は1970年代からで、秘境が世に知られたのはさほど昔でもない。景観はすっか有名になったが、地名を聞いて誰もがピンと来る程でもなく、評価がまだまだ低過ぎるぶん、行き時は今かもしれない。高鉄張家界西駅のオープンでアクセスも容易になり、今後さらなる観光客増加に伴い、チケット値上げや入場予約制など、お決まりのパターンを辿るかもしれないだけに。
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主要スポットの1つ黄石寨 |
2日目は張家界ターミナルの
森林公園行きミニバスに乗り込んだ。訪問先は
黄石寨と
金鞭渓で、エリア的には昨日訪れた袁家界の南にあたる。森林公園ゲートで昨日登録したはずの指紋が中々読み取られなかったので、入場拒否されないかとヒヤリ。
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張家界から森林公園ゲート行きのバス |
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森林公園入口を見上げるサル |
数日を要する武陵源観光は、体力とルートの帳尻合わせがポイント。前日の歩行距離は大した事なかったが、バス乗車時間が約5時間に及び、朝何となく身体が重かったので、少し出発時間を遅らせた。エネルギーを温存した分は、金鞭渓でのウォーキングに充てる算段。
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シャトルバス乗り場は立派な拵え |
黄石寨索道行きシャトルバスでロープウエイ乗り場に赴く。昼前の時間帯で待ち時間は無し。やがて乗るべき箱がゆっくり回って来る。乗客は少なかったのに、なぜか相乗り。ちなみに細長い形状のチケット(70元)は、そのままハガキとして使える。自分には中国国内で出す相手などいないが、旅の記念と広告の合せ技がユニーク。
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黄石寨索道のわくわく感 |
地上と天上の綱渡しは、実用とアトラクションを兼ねている。よく繋げたなと空を見上げ、万一ロープが切れたらと想像すれば、そのスリルも料金のうち。二本の石柱が門のごとく構え、徐々に近づき通過する瞬間がハイライトで、ぐっと上昇角度が上がる感覚が怖くて楽しい。
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彼方に見える二本の石柱が目印 |
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高所を急角度で上がってゆく |
黄石寨は周回するかたちで巡る。所々休憩しながら、ゆっくり歩いても1時間半程度。急勾配も無く、老若男女楽しめるコースになっている。サルがそこら中に跋扈し、別に悪戯をするわけでもないが、何か食べようとする時は要注意。散策中、悲鳴が聞こえたので振り返ったら、ベンチでランチ中の女性達が食べ物を掻っ攫われたところだった。不意を突く仕事ぶりは常習犯的な手際の良さ。
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見所を表記した黄石寨周遊地図 |
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ヒトに慣れたサルがそこらにいる |
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3億年前ここは海の中だった |
見晴台から眺める絶景は一生もの。酷い大気汚染から始まった旅だったが、それだけに澄み切った大気の有難さが身に染みた。個人的にはここ黄石寨が一番良かった。好天のお陰で遥か向こうの山々まで見通せ、手前の奇岩とのコントラストに妙味がある。さっと雨が降った後の、雲霧漂う姿も見てみたかったが、冬はその可能性は少し低い。
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標高最大1,200mで高山病の心配は皆無 |
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黄石寨の見どころ五指峰 |
この奇観は1億8千万年前、海底が隆起した際の亀裂が、途方もなく長い年月の間、水と風で削り取られた結果。先年訪れたカッパドキアのトンガリ帽子の面白さに比べ、こちらはやはり水墨画が似合うかたち。墨絵は中国の風景を活かす特有の技法だと実感する。
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人が入り込まないので希少植物も豊か |
薄雲の隙間から奇峰に薄陽が射すと、空気の粒が煌き、得も言われぬ神々しさを醸し出した。微風の音で心の奥底まで静まる感覚は、まさに仙人が霞を食って暮らす世界で、李白の詩「山中問答」から引けば、ここは人間世界とは別天地、心自ずから閑なり。
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写真では表現出来ない幻想感 |
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空気の清涼感も魅力 |
見晴台は団体で埋まっている時もあるが、少し待てば人も絶え絶景を貸し切れる。存分に眺めを味わえる時間の有ると無いとでは感動も違う。コースをぐるりと回り、来た場所に戻ると、今度は個室を割り当てられてロープウェイを下った。
【見上げる武陵源】
奇峰郡には見下ろすばかりでなく見上げる魅力もある。武陵源めぐりの最終コースとした
金鞭渓は、奇岩の渓谷を楽しむ6kmほどの散策路。すべてを歩き切るのではなく、体力に応じて引き返し、そのまま森林公園ゲートから張家界に戻る行程とする。
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侮れない魅力をもつ金鞭渓 |
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高さ200m以上ある奇岩 |
天上と異なり、奇岩に囲まれた地上は空が狭い。時折、コゥーコゥーという聞き慣れない鳴き声が響く。これが古典詩にもよく詠まれる猿声。どこか哀調を帯びていて、なるほど詩の描写に用いられるわけだと納得。もっともサルの種類も鳴き声も様々だろうから、詩人のイメージがこれと同じかは不明。とはいえ耳馴染みの日本のサルのキィーキィーよりは詩情を誘う。
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石畳の遊歩道が自然に溶け込んでいる |
猿声と木々のさざめき、渓流のせせらぎは、空気の美味しさや緑の豊かさと相まって、散策を快適にしてくれる。空に突き立つ峰々が今回は脇役として良い働き。自然公園としてここまで整備保存した中国当局の仕事は素晴らしいと思う。近くの
黄龍洞という鍾乳洞も主な見どころのひとつだが、カラフルにライトアップするセンスは好みじゃないのでパスした。
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奇岩群と渓谷の取り合わせ |
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冬を感じさせない緑木 |
12月末だが寒さに厳しさはなく、緑に囲まれた景色は冬を感じさせなかった。武陵源の目玉は袁家界、天子山、黄石寨なので、初訪問者は先ずそこを目指すが、もし日程に余裕がある時、または2度目以降の訪問時は、金鞭渓と組み合わせたハイキングコースもお薦めだ。
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金鞭渓エリア図。所要時間を付記。 |
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金鞭渓周辺の位置関係図 |
例えば、武陵源ゲート→天子山ロープウェイ→賀龍公園→袁家界→金鞭渓→森林公園ゲートのコースは、1日フルに使えば回る事が可能で、先述の黄龍洞と宝峰湖が見どころの
索渓峪を訪れる時間を捻出できる。正味2日でも4日間パスの元は十分取れたが、武陵源を堪能し尽くしたには程遠く、それだけに次回の楽しみが残った。
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下から眺める奇岩は違った味わい |
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タモリが喜びそうな断層 |
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金鞭渓で武陵源の見納め |
もし
天門山と、世界最長のガラス吊橋で有名な
張家界大峡谷も旅程に組み込むなら、武陵源宿泊3日(武陵源、張家界大峡谷)、張家界宿泊1日(天門山)という按配。広大な国土に見どころ尽きない中国ではあるが、武陵源観光の為だけに訪れる旅行も充分あり、それほどの価値を感じた。
夜、張家界バスターミナルに着き、駅前で市バスを待っていると、この地に少し慣れたせいか、勤め帰りみたいな錯覚を覚えた。駅方面に向かう朝のバスがオンボロで人が満杯だったのに比べ、市街方面のそれは新型でガラガラ。帳の落ちた市街の風景を車窓から見遣る。張家界は人口だけなら神戸や福岡と同等だが、日本の大都市の華やかさには程遠く、その分侘びた雰囲気が悪くない。今後益々発展していくだろうが、朝の騒がしい老朽バスも捨て難い気分がした。
【未明の地方空港】
真っ暗の早朝、ホテルをチェックアウトすると、夜中に一雨あったらしく、足元の道路が濡れていた。今日の武陵源なら霧が漂ったかもしれない。幹線道路だけに未明でも10分程度でタクシーを捕まえる事ができた。運転手にAirportなどと言っても通じないから、机场(jīchǎng)と告げる。四声発音の予習には単語も地名も現地語で喋ってくれるグーグル翻訳が便利だった。
張家界空港内は消灯されていたが、すでに他の乗客がちらほら待機していた。行きの便で同乗だった大家族グループもいたので、3泊4日のツアーに参加していた気分。漸く一部照明が点いて搭乗手続きが始まり、手荷物検査まで進んだら、なぜか再度カウンターに戻るよう指示された。理由を訊いても誰も英語を話せず、カウンターで事情を説明しても話が通らず。結局、背中のリュックは預けなければならない、との事だった。往路そんな事は言われなかったし、フライト経験上初めての要請でもあったが、空港スタッフの一存なので是非もなし。復路は機体への恐怖が軽減されていたせいか、寝落ちしている間に武漢に着いた。
(2015/12/27〜28)