【中国の新幹線】
西安の朝は霧で霞んでいた。大通りの解放路は、露店のファーストフードやパンを片手に出勤する人の流れが絶えず、灰色の大気と厳しい寒気の中、道行く人の表情も心なしか険しい。
龍門石窟のシンボル盧遮那仏 |
高鉄のおかげで中国の都市間移動は飛躍的に便利になった。西安〜洛陽間も、以前なら列車で5時間掛かったところ、高鉄なら約1時間半(約3,000円)で済む。物価の違いはあるが、日本やヨーロッパの特急よりもリーズナブル。駅の自動券売機は外国人は利用不可なので、切符は窓口で購入する。パスポートを添えて「列車番号、行先、日時、等席、人数」をメモで伝える。
座席は確実を期して、Trip.comで予約したかったが、当時は中国の銀行口座が必要だった。もっとも冬の閑散期だけに、サイトで事前チェックした空席状況は概ね余裕があり、当日でも常に希望の切符を買えた。
高鉄の乗車の流れは、新幹線より飛行機の搭乗に近い。乗客名が印字された切符を受け取り、パスポートチェックと手荷物検査を通過して駅に入場。主要駅でもある西安北駅は空港のように広大で、むやみに天井が高い。両端の壁際に沿って上階が設置され、飲食店が軒を並べている。朝食に点心(16元)を注文し、出発前の時を過ごした。ミネラルウォーターと腹の相性が良くないらしく、訪中以来いまいち調子が悪かったが、持参した赤玉を飲むと、ほどなく治まり準備万端。
西安北駅構内の巨大な空間 |
発車15分前に改札が開く。所定のゲートに集合していた乗客達は順々に検札を済まし、プラットフォームに降りて行く。自分の列は改札機が不調で、昔懐かしい改札鋏で検札された。出発時刻直前にはゲートが閉められるので、手続きに掛かる時間を考慮し、駅に着く時間は早い方が無難。頻繁に遅延する中国国内のフライトに比べ、高鉄はわりと正確に運行しているようだった。
ゲートの電光掲示の列車情報 |
入線した車両は、外観も内観も新幹線と瓜二つ。高鉄の2等席は、3列+2列の配置や座り心地まで同じで、潔いほどのコピーぶり。ちなみにビジネス席のラグジュアリーさは、飛行機を模したもので、価格は2等席の約3倍。この席種の設置が日本との差異で、超長距離移動の際は検討の価値があるかもしれない。
参考:中国の列車と座席の種類 (arachina.com)
G656 (10:07→11:43) 2等席 174.5元 |
座り心地は問題なかったが、 列車が加速し始めると、寒くなってきた。座席位置は最後尾の通路側で、どこかが空いているらしく、背後のドアから入り込む隙間風が冷たい。新幹線と似ていても細かい部分はやはり違う。
新幹線に似た高鉄。小型テレビ付き。 |
高速鉄道の注意点は、駅の多くが郊外にあること。東京駅や京都駅のように新幹線が街なかに着くわけではないから、高鉄駅から市内までの移動の手間を考えると、在来線で街の中心駅に乗り付けた方が早い場合もある。
一方、今向かっている洛陽龍門駅などは、郊外の龍門石窟付近に造られた駅なので、かえって高鉄でアクセスする方が近い。この辺はケースバイケースというところ。憧れの洛陽に着くと、意外にも降りる人はまばらで、トイレに立ち寄った自分が駅を出た最後の乗客だった。
【関羽の墓】
まず訪れるのは関羽の墓、関林廟。林とは墓の意味で、孔子の墓も孔林と呼ばれるから、関羽は聖人扱いという事になる。呂蒙に敗れ処刑された関羽の首は洛陽の曹操に届けられ、この地に厚く葬られた。
高鉄駅の周囲には何の施設も無い。右手のバス停で関林行きのバス番号を確認中、タイミング良くどんどんバスがやって来た。この調子なら慌てて乗り間違えるより、確実なのを見定めてから乗ろうと安心していると、そのうちピタッとバスが途絶えてしまった。高鉄の到着時間を見計らったようにバスをつけ、乗客を攫っていく段取りのようで、効率の良さに感心したものの、自分はその波に乗り遅れたようだった。
結局、関林直行のバスではなく、本数の多い龍門大道に向かう便に乗り、関林路との交差点で降りて、そこから関林まで約1km歩いた。洛陽市内のバス料金は1.5元。高鉄駅から龍門大道関林路口まで約20分ほど。
座席数少なく、小ざっぱりした市バス |
額面には「漢寿亭侯」と銘打たれている |
関羽は商売の神様でもあり、関帝と呼ばれるだけあって、その像は皇帝の被り物である冕冠を身に着けている。俗人としての肩書は、漢においては寿亭侯、三国志演義においては五虎大将軍で、それらのステータスもしっかりアピールされている。統一感が無いが、要するに偉いということが分かれば良い。
黄金に輝く商売の神様関羽 |
一将軍に過ぎない関羽が信仰と結びついたのは、彼の敗死と同年に呂蒙、翌年に曹操が相次いで死んだ偶然がきっかけと思える。敗軍の将が敵を祟るのは筋が違うが、関羽を討った魏呉の当事者達の死は当時から気味が悪かったのだろう。日本で言えば菅原道真の例が近いかもしれない。
長い歴史の中、数多の戦乱に見舞われた洛陽だけに、首桶が今も埋まっているかは不明。ただし貴人の陵墓と異なり、信仰が付随した墓である分、案外手付かずかもと思いながら、大きな首塚を一周見回った。曹操が関羽を評価していたのは周知の事実で、死後礼を以て遇したのも、政治的配慮を別にした好意あってこそだろう。それを鑑みると、三国時代の息吹はここで確かに感じられた。
樹木生い茂る関羽の首塚 |
関林を出て、そばのバス停で龍門石窟行きのバスを待っている間、音もなく通り過ぎるスクーターが気になった。古臭いデザインに惑わされたが、それらは電動式。排気音が無いだけで、往来は随分静かだし環境にも良い。従来の原付を見かけないほど普及率が高く、完全に日本より進んでいる。
道路沿いには民家や商店が並び、小さな子供たちが道端で遊んでいる。はき物を見ると、臀部に切れ目があり尻が丸見え。これが中国伝統の股割パンツだ。見るからに寒そうだが、これなら膝まで降ろす不便もないし蒸れない。そして、しゃがんだ場所がどこでも便所になる..。
バスがなかなか来ないので、諦めて一度龍門大道まで出たのち南に向かうバスを拾った。頻繁に行き交っているので、こちらは待ち時間は無かった。
【遊牧民と仏教】
龍門石窟バス停には20分ほどで着いたが、遺跡の入口が見当たらない。他の観光客について行こうと気楽に考えてたが、あいにく人はまばら。実はここから遊歩道を南に歩けば北区遊客中心に行けたのだが、その情報も知らず、とりあえず近くに停車していたシャトルバスに乗った。この車は龍門北橋を渡り、伊河東岸の東北区遊客中心に向かうので、間違いではなかったが、乗車の際、係員が運転手に「彼を售票所に案内してくれ」と頼んでくれた時、乗客が皆一斉にこちらを向いたのには戸惑った。今思えば、皆そこの駐車場へ帰る人達だったから、なぜ遠回りして入場するのかと訝しんだのだろう。そこでチケットを買い、有料の電動カートでようやく入口へ移動。吹きさらしで凍えたが、西岸への橋を渡る小ドライブは案外愉しかった。
回り道した分、漸くスタートできる安堵と高揚の気分で、巨大な入場門をくぐった。ルートとしては、南北に流れる伊河西岸を南下し、盧遮那仏(奉先寺)を通過後、橋を渡って今度は東岸を北上、白居易墓(白園)付近のバス停がゴール。伊河を跨いで「し」を描く感じ。巨大な盧遮那仏がある前半の西山石窟が観光の目玉になる。
無数の穴に仏像が鎮座している |
左手に河、右手に無数の石窟を見やりながら歩いていく。道は幅広く快適。破損した像は文化大革命の最中にやられたらしい。偶像崇拝を忌むイスラム教徒が叩き壊した像をあちこちで見てきたが、同じような嫌悪と虚しさを感じる。信念を持って造る人、壊す人。同じ信仰でも、行為の価値は真逆だ。
顔面が欠損した仏像たち |
見飽きるほど多い石窟と仏像の数から、この地に注ぎ込まれた膨大なエネルギーが伝わってくる。造営は北魏の時代に始まり、唐代に最盛期を迎えた。北朝(北魏〜北周)から隋唐の統一事業を成し遂げたのは鮮卑の拓跋という、テュルクあるいはモンゴル系とも言われる部族で、隋を建てた楊氏と唐を建てた李氏は親戚筋。
彼ら遊牧民が南下し、所謂漢民族を駆逐し、黄河流域に国を建てるにあたって、従来の儒教に代わる新しい価値観、すなわち支配の正統性の拠り所を求めた。それが北朝で国教化した道教であり、西域からの外来宗教である仏教だった。
仏教はすでに漢代に伝わっていたが、5〜6世紀の北方異民族の流入と支配、それに伴う避難民の流出という不安定な世情が信仰需要を呼び、かつ遊牧民王朝との結び付きを通して、独自の発展、伝播の拡大という新ステージをもたらした。
竹の足場で所々修復中 |
ゆえに中国の仏教の興隆は拓跋部が担ったと言ってもいい。北魏で仏教は度々弾圧されたものの、積極的に保護される時期もあり、5世紀中頃の平城(現大同)の雲崗石窟、そして5世紀末、洛陽遷都後の龍門石窟の造営と、唐代へと続く本格的なブームが到来する。
当時の倭(ヤマト王権)もこの流れを受けた。半島経由で伝来後、蘇我氏が仏教を推して鎮護国家の階となり、その後、豪族連合から天皇中心への移行(倭から日本へ)に伴い、揺るぎない位置を占めてゆく。16世紀伝来のキリスト教同様、外来の新宗教は国情変革の契機となっている。
龍門石窟が彫り込まれていた頃の中国は、一時期交流は断絶したものの、日本のあり方を変えるほど強い影響力を有した。昔日とほぼ変わらない石窟の風景を眺め、時間と距離は遠いものの、両者の繋がりの近さに思いを致した。
【女帝の顔】
人声の賑やかな一帯に差し掛かると、そこが巨大な盧遮那仏が鎮座する奉先寺で、急な階段を登り切り偉観を目にした時は、退屈と疲れが吹き飛ぶ感動があった。やっぱり大きい事は良い事で、龍門石窟が名所なのもこの大仏の存在感あってこそ。やや丸みをおびた容姿に唐代の特徴が出ている。女性というより中性的な造形 |
この仏像のモデルとされるのが中国唯一の女帝である武則天。権力強化を図る彼女は、科挙による人材登用で貴族勢力を削ぐ一方、権威づけとして仏教を奉じ、その結晶が盧遮那仏だった。ルックスを似せたという俗説は、スポンサーだったがゆえに生まれたものだろう。実際の彼女の容姿は、高宗がわざわざ父太宗の後宮から見染めたほどだから、この仏像よりも魅力的だったと思われる。話は飛ぶが、後年の楊貴妃も元々玄宗の息子の妃なので、唐代で最も高名な2人の女性の台頭には、儒教ではあり得ない遊牧民的な習俗が絡んでいる。
造営は武則天の莫大な化粧料で賄われた |
武則天の業績は、本人の意図はともかく、唐を事実上太宗から受け継ぎ、長期間安定を堅持した事にある。倭も白村江でその勢威に一蹴されており、大敗のインパクトは、天智、天武・持統から本格的に進捗する律令体制への移行を促した。周縁への影響力の大きさこそ、大唐たる所以だろう。
彼女と同時代を生きた持統天皇とは、我が子への思い入れ具合が対照的で、武則天が実子を廃して即位(武周革命)したのに対し、自身が皇族の持統は実子の皇位継承に心を砕いた。持統は武則天を知っていた筈だが、唐の制度は大いに参考にしながら、同じ女帝として彼女から何かを踏襲した様には見受けられない。低い身分からのし上がった武則天を支えたのは良くも悪くも権勢欲で、強烈な上昇志向と執着心が龍門大仏の穏やかな表情の裏に潜んでいる、と想像するのは一興だった。
【洛陽郊外の風景】
橋を渡り、東岸から俯瞰する西山石窟は、手付かずの自然が残っていて、違った趣きがあった。いにしえの風を感じるような風景だけに、大気を覆うベールの様な汚染物資が禍々しい。高鉄駅へどう帰ろうかと気になり始めていたので、ぼちぼち遠足気分も萎んできた。洛陽の空も西安同様の灰色 |
白居易墓には寄らないことにして、その近くの停留所で帰りのバスを待った。人も溜まってきたので、全員バスに乗り切れるか少し危惧を感じ、試みに客待ちタクシーと交渉したら、法外な料金を吹っ掛けられた。無論却下。この運転手は他のグループにも相場以上の金額を提示していたようで、結局客を取れず去っていった。
のどかな西岸の景色 |
ようやく来たバスは洛陽龍門駅直行ではなかったが、往路同様、龍門大道を通って関林路まで行くので、関林路から高鉄駅行きの便は頻繁だろうから、乗り換えはスムーズと踏んだ。印象的だったのは、車窓から目に入る民家が凄まじく老朽化していたこと。古代王朝の都洛陽と言えば、日本でいえば京都のようなイメージがあったから、いかに郊外とはいえこれは驚き。世界的観光地に落ちるお金の恩恵が、全く及ばない別世界がそこにあった。
洛陽龍門駅窓口の順番待ち |
高鉄駅では切符を求める行列が出来ていた。待つ間、列車案内の電光掲示をチェックして、窓口提出用のメモを取る作業はひどくアナログだったけど、予約便に遅れないよう急ぎ足になるより、悠然となりゆきに任せる気分はきらいではない。仮に目的の便が満席でも、駅員がコンピューターの画面を見せ、代替便を示してくれる。支払いは銀聯プリペイドカードなので手続きはあっさり。ただ窓口によってはカード読取機が無いケースもあった。
暖房があまりきいていない駅構内 |
洛陽龍門駅。乗降場に売店は無い。 |
龍門石窟で半日掛かる事を考えると、洛陽観光は見所を絞っても1泊2日以上は欲しいところ。長安と洛陽は首都と副都の関係で、三国志関連では董卓の強引な遷都を思い出す。東方から迫る連合軍に対して西の長安に退くが、根拠地の西涼に近づく為、洛陽には何の未練も無く焦土戦術を敢行した。緊急の戦略的撤退だったから、付き合わされた人々の労苦が偲ばれるが、高速鉄道はその道のりを快調に駆け抜けるのだった。
(2015/12/23)