内陸の王朝(西安 1)

【古代の二都】

現在の中国の三大都市、北京と上海と広州はいずれも海側にあるが、古代の中心地は長らく、内陸奥深い長安洛陽にあった。関中盆地の要害性と、西域と交易し易い利便性がその主な理由だったが、やがて宋代に至る江南開発、モンゴルによる大都の造営、航海技術の発達等に伴い、重心は東に移り現代に至る。

今回の旅はいにしえの都長安、今日の西安を出発点とし、三国志の争覇の地荊州に向け南下しながら、途中で武陵源観光を挟む。テーマを3つに分け、各エリアを10日間でめぐるプランを立てた。

①秦漢〜唐の都(長安、洛陽)
②武陵源の奇観(張家界)
③三国志の舞台(襄陽、荊州)

拠点都市は、前半が西安、後半が武漢。訪問スポットが多いので効率よく廻らなければならないが、幸い今日の中国は交通インフラが飛躍的に発達し、旅行に便利なサービスにも事欠かない。お陰で旅程はほぼ計画通りに進んだ。

極彩色の西安鐘楼


【西安の冬】

蒼い冬空の下、東京駅から茨城空港までバス移動。春秋航空で上海へ飛ぶと空は鉛色に変わる。浦東空港で中国東方航空に乗り換え、西安咸陽国際空港に着いたのは2時間半後。空港内は砂塵なのか、うっすら靄が立っていて、何となく舌もざらつく感じ。まだ21時にも関わらず、空港内は閑散とした雰囲気。市内へはエアポートバスを使う。2号線西安駅方面、隴海大酒店行き、25元、所用約40分。

出迎えの秦の兵士(写真は兵馬俑)

西安は咸陽から南東約30kmにあり、空港から市内へは、秦都から唐都への移動と重なる。道中、歴代皇帝の陵墓や未央宮の案内看板が見え、古代中国の舞台に居る実感が湧いてきた。未央宮とは漢代の長安城で、現在の西安市街は唐代の長安城が発祥。この地帯には周代から都が置かれてきたが、都城の位置は王朝によって異なる。

市街に入ると、電飾に彩られた巨大な城壁と城楼が目に入り、一気にテンションが上がった。ただし唐代の城壁の高さは現在の半分、約5mと推測されており防御力は低かった。数多の戦乱を経てきた長安ながら、大籠城戦が行われなかった理由もその辺にある。

エアポートバス2号線の到着地、咸陽空港と直結する隴海大酒店は、西安駅から南に徒歩10分の好立地で、周囲には大型ビルが林立し、22時を過ぎてもまだ賑やか。部屋は広く綺麗で、メトロ(五路口駅)近くというアクセスの良さを考慮しても、料金約3,000円はコスパが高く、西安初訪問の拠点としてお薦め。


【兵馬俑と対面】

朝目覚めた時、まだ薄暗いからと二度寝したが、それは外一面が灰色に覆われていたからだと後で気付いた。近距離の建物さえ霞んで見える光景は大気汚染都市デリーと同じ。こんな世界に飛び込むのは気が進まないが、閉じこもっているわけにもいかない。

朝食と昼食を兼ねて、近くの小奇麗なファーストフード店で小籠包を注文。最初だけに清潔さを重視。スープとドリンクのセットで19元はやや高めだが、味はまずまずで、腹ごなしとしても充分だった。

西安駅周辺には大きな銀行ビルが立ち並び、その中のATMで1,000元分キャッシングした。旅程10日間の予算はこの現金と、日本で40,000円分チャージしておいた銀聯プリペイドカードでまかなう。結果的に若干余った。

北東の兵馬俑方面へのバスは、西安駅東側から発着している観光バス「游5」を利用。乗客が溜まると発車し、料金は7元、車内で徴収される。道中マンションやビルの残骸を多く見かけ、頓挫した建設ラッシュの末路を晒していた。唐の玄宗皇帝の離宮として有名な華清池を通過し、約1時間ほどで兵馬俑博物館に到着。始皇帝の陵墓は咸陽宮から約50kmも離れており、さすがスケールが大きい。

西安駅〜華清池〜兵馬俑を往来する
こちらは西安駅前に掲げられた列車案内

博物館の建物はバス駐車場から少し離れている。以後も悩まされたが、中国では著名な観光地でも、バス停と入場口間で距離があり、入口への導線も分かりにくい。案内板も大雑把(あればまだいい方だが)で、周囲と言葉も通じないから、到着後暫くウロウロする事が多かった。入場ゲート付近にはガイドが大勢屯しており、「100元」と盛んに売込みを掛けてくる。それらを無視し、公園の曲りくねった小道を10分ほど歩くと、ようやく兵馬俑博物館が現れた。

秦始皇帝兵馬俑博物館

エリアは博物館と、一、二、三号坑で成り立ち、兵士が整列した有名な光景が見れるのは一号坑。人の多い中国でも、12月末はさすがに観光客が少なく、良いポジションで長時間堪能できた。製作当時は彩色されていたが、今日の姿は見渡す限り土色一色。正面から見下ろすと閲兵している観がある。

西国の秦兵は今も東方を睨む

焚書坑儒に見られるように、始皇帝には物事を徹底させる性向があったようで、細部まで造り込まれた兵馬俑にもその性格が反映されている。一体も品質を疎かにせず大量生産した組織力と実行力。この仕事ぶりに辺境の秦が天下を統一出来た理由が凝縮されている気がする。

数千年ぶりに整列した軍団

一号坑は一応館内ながら、発掘現場を囲った施設に過ぎないので、暖房設備も無く寒い。俯瞰のスケール感を味わえる一方、間近で見れない分、彫像の鑑賞には適していない。ゆっくり一周し、往時の軍隊の規模を体感して次に移った。

他の坑の展示(現場)は、横倒しされたままだったり、破片が散乱したままで、いかにも発掘中の遺跡といった感じ。併設の文物陳列庁にある馬車の俑は当時の乗り物を忠実に再現しておりリアル。時代劇の考証担当者には垂涎の史料だろう。

まだ土中にあり散乱したままの兵士
兵馬俑だから馬の像も当然ある

兵馬俑坑から秦始皇帝陵へは、始皇帝像付近に停車している無料シャトルバスで5分ほど。陵墓はピラミッド型で、30メートル地下には、始皇帝の遺体が安置された地下宮殿がある。始皇陵は唐詩にも詠われており、昔から知られた遺跡だったようだ。予備調査の結果、墓室は荒らされていないらしいが、その全貌が明らかになるのは数十年後とのこと。

標石背後の陵墓は霧のベールに包まれていた

緑地公園として整備されているこの陵墓には、二世皇帝に殺害された始皇帝の皇子達とその妻妾も埋葬された。彼らの頭蓋骨をもとにした復元像は胡風の顔立ちだったという。その精確性はさておき、西方の秦だけに西域との血的な繋がりはあったかもしれず、想像を逞しくすれば、ペルシアの官僚統治技術などもこの地に伝播し、秦国に影響を与えていたかもしれない。

戦国時代の勢力図 ※Wikipediaより

皇帝の称号を継いだ劉邦は自らを秦始皇の後継者と自任していたらしく、項羽のように陵墓を荒らすこともなかった。同時に中央集権国家の仕組みも受け継ぎ、これは劉邦軍が咸陽に入った際、蕭何が取得した秦の法令や行政文書が基になっている。秦のDNAはそんな形で漢に遺ることになった。しばしば秦漢と括られるのはその為で、逆に言えば、漢が長命し中国のフォーマットになったからこそ、秦の始皇帝はファーストエンペラーたり得たと言える。

始皇帝は巡行中の7月に死亡し、魚を積んだ車で死臭を隠したと史書にあるから、金縷玉衣に包まれているであろう遺体は、埋葬の時点でかなり腐敗していた可能性がある。享年は49歳で、圧倒的な存在感のわりには早死の印象だが、彼より100年ほど前のアレキサンドロス大王などは32歳没だし、大偉業を成すには運を味方にすれば、それだけの時間で足るのかもしれない。

始皇帝の死後、急速に瓦解した秦に比べ、漢は匈奴戦の敗退、呂太后の専横など、最初期こそ動揺したものの、長期王朝の礎は保たれた。両者の明暗を分けた要因の一つに仲間意識の有無があったように思う。能力主義で外国人も多かった秦に対し、漢は昔馴染みの面々が高祖死後も元勲として支えた。端的に言えば、おらが国だった。

明治期の薩長政府も同じだが、同郷や同族で創った国は、それを護ろうとする力が良い方向で作用するようだ。また新しいルールが誕生した時、一旦は反作用で打倒されても、その継承者はスムーズに受け入れられる例も多い。人間は慣れの動物でもある。


【鴻門宴史跡】

鴻門の会の現場は、秦始皇陵のほぼ真北、約5kmに位置するので、当時の項羽軍が秦の心臓部に迫っていた事がわかる。始皇陵から無料シャトルバス乗り場に戻る途中、タクシーの売込み攻勢に出くわした。言葉は通じず、スマホに取り込んでいたガイドブックの写真で鴻門宴を示すと、料金50元と吹っ掛けてきたが、往復を条件に片道5元とした。(現在は、始皇稜から鴻門宴まで無料シャトルバスが出ている)

目立つ鴻門宴史跡の入口

鴻門宴遺址は、高台の小規模な砦と会見場跡で構成されている。この地に布陣し攻撃態勢を取った項羽に対して、恭順の意と申し開きに訪れた劉邦。ここで劉邦が死地を脱した事が、その後の両者の運命を決めた。

とはいえ項羽にすれば、功績ある味方を倒すデメリットは考慮したはずで、逃したのは失敗と断ずるのは結果論だろう。劉邦側もあえて敵地に飛び込んだからには、それが最善策という見込みがあったはず。両者を取りなした項伯が、項羽滅亡後も身分を保証されたあたりに実情が見える。このとき項羽は30歳、劉邦は推定50歳前後(年齢不詳)。名家出身で働き盛りの項羽にすれば、へり下る庶民出身の初老男がライバルに見えなかったとしても不思議はない。

無論、虎口にある以上何が起こるか分からず、その緊迫感が史記の名場面のエッセンスになった。入場してまず目に入る碑文には、そのくだりの全文が彫られており、当地を永遠に有名にした文章には千古の価値がある。

鴻門の会を描写した史記のくだり

園内には宴席を再現した施設や、簡易な博物館が併設されている。展示方法はどれも安っぽい。もっとも下手にテーマパーク化して、かえって雰囲気を壊す例もあるし、風情を残しつつ史跡を観光地化するのは難しい課題と思う。

宴会場。右の兵士のポーズがお茶目。

博物館の解説プレートには英語と日本語訳が付記されているが、担当者が翻訳ソフトを鵜呑みにしたらしく、周(王朝)をWeekと訳すなど、笑えないレベルの誤訳が目につく。ただし珍訳は日本国内にも多いらしいから他人事ではないが。

展示物のプレートには奇妙な英日訳が

鴻門の高台の地形は当時と同じはずなので、駐屯に適した地勢が実感できる。砦から麓の宴席跡や周囲を見下ろすと、むやみに開発されていない分、大昔を彷彿させる味わいがあった。

鴻門宴史跡の砦から。右手の坂道が国道に通じる。

さて帰ろうと駐車場に戻ると、始皇帝陵まで戻ってくれるはずのタクシーが消えていた。待つのに飽きたのか、往復という条件が伝わってなかったのか。ここから直接華清池に向かおうと再考してたので問題なかったが、チケット窓口の人にバス亭の場所を尋ねると、バスという単語さえ通じないのには困った。けど筆談を交え根気よく対応してくれ、どうにか華清池への公共交通の情報を得て、長い坂道を下り、幹線道路(G108国道)に出た。

ところがバス停がどこにも見当たらない。灰色の空は薄暗くなり始め、空気は塵で淀み、周囲にひと気も無し。タクシーは時折通るから不安は無いものの、田舎道で1人佇む状況にため息をつく。ふいに番号付のバンが通り過ぎ、少し離れた交差路に停車した。あれがバスかと気付いて走ったが間に合わず。結局流しのタクシーを拾って華清池に向かった。

両雄の対面はこれが最後となった

鴻門を脱した劉邦一行は、布陣していた覇上(西安市街の東南)に大急ぎで引き返す。天下平定後、功臣を次々に殺した劉邦の脳裏には、きっとこの日の項羽の甘さが去来していた事だろう。


【温泉の華清池】

鴻門宴風景区から華清池へは車で20分ほど。メーターで18元。途中で乗客を一人乗せたが、ほどなく料金も払わずに降りて行った。どういう仕組みかよく分からない。

華清池はかつて唐の玄宗と楊貴妃が遊んだ避寒地で、日中戦争中は蒋介石がここに滞在中、襲撃拉致される西安事件の舞台にもなった。日はすでに傾き気温が下がっていただけに、冷たくなった手を湯に浸すと、ほっと生き返る心地がした。

華清池の楊貴妃像。背後は驪山。
湯気立つ手湯。寒い時期には有り難い。

当地の温泉には3,000年の歴史があり、玄宗は逗留した王や皇帝の1人に過ぎないが、楊貴妃とのエピソードが有名なのは、白居易の長恨歌によって華やかで艶めかしいロマンスが歌われたから。古今東西、人々は物語に弱い。

楊貴妃専用の湯殿
こちらは玄宗の湯殿

戦禍と混乱を招いた張本人にも関わらず、表玄関の二人の彫像は美化されたもの。「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」そんな風に詠われたら悪役にはなりにくい。玄宗が治世前半は名君だったこと、楊貴妃の人柄が朗らかで柔らかかったことも、憎悪の対象にならなかった要因かもしれない。

プールのような大浴場
現役の湯気立つ温泉

蒋介石は日本とも縁の深い人物。彼が起居していた部屋は内装が整えられ、さほど遠い過去ではない事もあり、当時の息遣いが感じられる。割れたままのガラスや石壁の弾痕が、資料として保存されている点に、中共の西安事件に対する評価が垣間見える。国共合作と対日抗争への転機となったこの事件は、中国近代史を動かした意義から、華清地のもう一つの顔として見る価値があった。

やや狭苦しい蒋介石の寓居
西安事件時の弾痕が硝子パネルで覆われている

華清池に面する大通り秦唐大道(分かりやすい名前!)には、西安と兵馬俑を往復するバスが頻繁に往来し、行き来に困らない。西安火車站と表示されたバスを捕まえ帰路についた。ただ往路の游5とは運行会社が違ったようで、料金は8元。車内で料金を支払う仕組みは同じだった。


【西安メトロ指南】

ホテルに戻り少し休憩したあと、夕食は回民街で食べようと、近くのメトロに出向いた。行き先は鐘楼駅。運賃は1元~3元。主要駅は乗客でごった返す。切符は券売機と窓口で購入出来るが、窓口に並ぶ人数の方が多い。駅構内に入る際は手荷物検査がある。駅によっては持参のペットボトルまで再度検査機に掛けるなど厳密だった。

券売機は英語切替可だが、日本人には漢字のままが分かりやすい。タッチパネル式画面で路線、目的駅の順で選択すると、運賃が表示される。鐘楼駅まで2元なので、まず1元札を投入したらすぐ吐き出された。認識エラーかと何度か試していると、そばにいた女子高生ぽい案内係が「違いますよ」という風に話し掛けてきた。無論言葉は通じない。

しきりに手のひらを見せるので、5と伝えているようだが、鐘楼まで運賃2元ではないかと指を2本立てるが話が噛み合わない。数分やり合った後、券売機に目を戻すと、”1元札非対応”の表示に気が付いた。5元札かと理解したのを見て取り、女子も役目を果たしたように顔をほころばせた。

数十年前の中国旅行記などでは、服務員は仕事をしない代名詞に描かれたりするが、今熱心に乗客を案内している彼らを見ると隔世の感があった。さっきの場合、言葉やジェスチャーを用いずとも、券売機の説明文を指すだけで済んだ話だが、慣れない外国人相手の努力自体には好感。中国滞在時こんな親切心は度々感じた。


【鐘楼と回民街】

美しくライトアップされた夜の鐘楼は西安名物で、地上に出てその極彩色を目にした時、思わず「ほう」と声を上げたほど。麓にはローマ劇場のような広場と円形階段があって市民の憩いの場になっており、そばには徳発長や同盛祥といった有名店が立ち並ぶ。さらに西に歩くと、同じくライトアップされた鼓楼に行き当たり、そこから北に向かって回民街が伸びている。

歴史文化街区を見下ろす鼓楼

鐘楼と鼓楼のきらびやかさもさる事ながら、回民街の賑やかさと活気には、その日の疲れを忘れさせられた。回民とはイスラム教徒を指し、女性はスカーフ、男性はトルコ帽に似た形の帽子をかぶっているのが特徴的。中国らしからぬ光景は、これぞシルクロードの起点あるいは終着点の長安という感じ。

見るからに楽しげな雰囲気が漂う回民街

屋台や食堂が立ち並ぶグルメストリートは、串焼きにした羊肉のにおいと煙、鉄板上で豪快に調理される炒めもの、2人が杵で飴の生地を叩く傍ら、それを1m以上、地面につきそうなほど宙で引き伸ばして、形成する実演など、目にするものが物珍しくて飽きない。


中央アジアの雰囲気がほのかに感じられる

とある店先の、鉄板で四角いこんにゃくと野菜と手際よく炒める様子が気に入り、入ってみた。が、見た目の豪快さと裏腹に味は調味料を加えたいほど薄口で、ちょっと物足りなかった。

こんにゃくと野菜の炒め物。薄味。

もうひとつのきしめん状の麺料理は、意表を突くカレー風味。スライスされたジャガイモの歯応えも丁度よく、これはそれなりに美味しかった。どちらも日本の中華料理としては見たことがなく、味よりもユニークさが記憶に残っている。

カレースープのきしめん。ジャガイモがポイント。

自分はお腹が弱い。帰り電車の大混雑に耐えていると、ふいに腹から変調シグナルが送られ、軽い吐き気を催し、ほどなく危急存亡の状態に陥った。目の前が暗くなり、もはや一刻の猶予もない。ようやく停車しドアが開くと、天の助けか、眼前にトイレがあったので、吸い込まれるように個室に飛び込んだ。さすがにドアはあったが、床は一面濡れており、トイレットペーパーなど当然無く、思わず立ちすくむ。

こんな事態もあろうかと、ポケットティッシュは持参していたが、その瞬間、ビジュアルショックに胃腸も硬直したのか、潮を引いたように腹痛がおさまった。押すか引くか、ホテルまではあと1駅と徒歩15分、何とか保つだろうと見極め、ここは我慢する。その後の帰り途、第二波、第三波と波状攻撃が襲ったものの、何とか凌ぎきった。

食べ物が悪かったというより、慣れない現地料理にお腹が驚いたのだろう。出したらすぐ治ったが、着いて早々こんな体験をしてしまうと、以後食事には神経質にならざるを得なかった。

(2014/12/20〜21)