インドのミュージカルを観る(インド 6)

【オーバーブッキング発生】

インディラ・ガンジー空港ターミナル1に到着し、そこからエアポートメトロに繋がっているターミナル3へ移動する。職員に教えてもらったシャトルバスは、料金30ルピーとなぜか往路の時より高かったが、ターミナル3ではなくデリー・エアロシティ駅直行便だった。

メトロは自動券売機が無いので、窓口で行き先を告げてトークンを受け取る。口頭で長い駅名を伝えるのは間違いを生じそうで、路線図PDFを保存したスマホ画面を駅員に見せるとスムーズに理解してもらえた。デジタルなのかアナログなのか。

パハールガンジに着き、宿でチェックインしようとすると、あっさり「部屋が無い」と言われた。「昨夜団体の予約が急に入ってね。あなたの予約はキャンセルしました」「.....」そしてどこかに電話を掛け、受話器を渡されると、聞こえてきたのは「オーバーブッキングなので、今からこっちに来て下さい。案内させるから」というぶっきらぼうな日本語。客に迷惑をかけている意識は微塵も感じられない。

その宿に移動すると、電話の主は日本語が上手なインド人オーナーだった。替わりの部屋はここかと思っていたら、さらに別館へ連れていかれた。「今から行く部屋は広いから良いですよ。料金?同じです」ところがそこに着くと、完全に老朽化した建物で、案内された部屋も薄暗く設備も古く汚い。もともと予約していた部屋より明らかにランクが下。

団体客で客室を埋めたいが為に、個人客をキャンセルしたいのは分かる。であれば代償として先約者に便宜を図り、最低でも同等の待遇を用意するべきところ、この対応。溜まっていたインド人ルールに対する鬱積がついに爆発し、「そっちの都合で勝手にキャンセルしておいて、同じ料金でこんな古くて汚い部屋に泊まれるか。それでフェアだと思うのか!」と大声で抗議した。

相手は平然としたもので「では空港までのタクシーを便宜する」「幾らなら納得できる」と”交渉”を進める。「空港への足など要らない」「半額だ」と応じれば、そばで聞いていた老館の主人が「冗談じゃない!」と片手を振り上げ、交渉は決裂。今思えば、他所から連れて来られた客に目の前でこきろされたのだから、彼の立場も無かっただろう。

仕方ないからもとの宿に戻って自力で宿泊先を探す事にした。ロビーでWiFiを使わせてくれたのはせめてもの気配りか。近場で直前セールの部屋があったので、料金はやや高めだったが即決。出て行く時、改めてオーナーから「御免なさい」と日本語で声を掛けられた。インドで謝罪の言葉を聞くのは珍しいから、この件はそれで納得する。だからホテルのレビューに、この出来事は投稿していない。


【またもオーバーブッキング発生】

予約し直したホテルは地図上の距離は遠くなかったが、幹線道路を挟んでいたので大きく迂回せねばなかった。一度ニューデリー駅に戻って、悪徳旅行代理店と客引きがひしめくゾーンを通過した後、排気ガスで満たされた大通りを暴走車に気をつけながら横断する。結局30分ほど歩いた。

着いたホテルはロビーが広々として奇麗で、スタッフの対応も洗練されており、少し安堵。チェックイン手続きを待っていると、また様子がおかしい。まさか1日に2度も予約トラブルは無かろうと考えていたら、「問題が発生」したので、別ホテルで宿泊をお願いしたい、との申し出を受けた。悪い事は重なるものだ。

さっきの例があるので、代替部屋のクオリティが気になった。また変な所に連れて行かれ、全て一からやり直すのはもう沢山。けど案内されたのは、インド滞在中最高レベルの部屋だった。今回ホテル選定には散々苦心したが、ほとんど期待外れだったのに対し、偶然行き着いた所に限って大当たりとは皮肉なもの。インドのホテルは1万円以下のレベルだと、料金と部屋の質が一致しない。

ソファに腰掛けて、明日の予定を考えるべくガイドブックをめくっていると、見覚えある人物の写真が目に飛び込んだ。「あっ」さっきのオーバーブッキングのオーナーだ。最前までやり取りしていたから妙な感じがする。あくどい人ではなかったけど、その人にしてあの有様というところに、当地事情がうかがえる。

外出は気が進まなかったので、ホテルの食堂に降りた。お客は自分ひとり。テレビではローカルドラマが流れ、男が女を殴っていて気分が悪い。画面から視線をそらせてまんじりとしていると、その様子を見ていたのか、落ち着いた色のサリーをまとった上品な老婦人が来て、リモコンを置き「好きなものを見なさい」とばかりに微笑んだ。

好意がありがたく、チャンネルを歌謡画面に変えた。けどよく見たら「ペパーミント・キャンディー」という韓国映画の唱和シーンだった。ほどなく鉄道自殺の場面になり、表情のアップと死への絶叫が食堂内に響き渡ると、場に微妙な空気が漂い、老婦人は静かに立ち去った。せっかくの親切が台無し。


【新興のグルガオン】

翌日。元々この日はジャイプール1泊2日の小旅行の予定だったが、霧の影響ですでに鉄道と宿はキャンセル済み。替わりにボリウッドミュージカルを観劇する。インド映画のミュージカルシーンが好きで、それをライブで楽しめるのは魅力だった。劇場サイトのチケット予約フォームは、クレジット決済でエラーが出るので、購入は現地で。ちなみにボリウッドはインド映画の代名詞になっているが、別にムンバイだけで映画製作されているわけではない。

場所はグルガオンという近年急激な発展を遂げつつある近郊都市。コンノートプレイスからメトロで1時間の距離。車両の床は砂まみれだが、メトロはインドで最も安心して移動できる手段。しばらく南に進むと地上に出て、高さ73mのクトゥブ・ミナールが目に入った。訪れたかったが駅から遠く、オートリキシャとの交渉が面倒で断念したスポット。車窓観光で済ます。

グルガオンに入ると、建物の大きさ、奇麗さが目に見えて違ってくる。大型商業施設が立ち並ぶ様は旧市街と別世界で、ここを最初に訪れていたら、随分インド体験も違ったかもしれない。その分、インドらしさも味わえなかっただろうけど。

目的地イフコ・チョーク駅に着くと、道端でたくさんのオートや人力車が客待ちをしている。駅から施設までは歩いて10分も掛からない距離だが、霧と汚染で霞んだ空気なので、30円でサイクルリキシャを雇う。こんな近距離で乗せてもらうとは良い身分だが、それでこそ豪奢なショーを観に行く心意気というもの。

立派な劇場外観

劇場はキングダム・オブ・ドリーム(KINGDOM OF DREAMS)というエンタメ施設の一部。入場料が高いだけあって来場者の品が良く、窓口の割り込みもない。席種は7カテゴリあり、それぞれ平日と休日で結構価格差がつけられている。座席位置を確認して、中の上のGold席を選択。2,499ルピー。窓口スタッフは手際もよく、ごまかされる心配も要らないから、いつになくスムーズに事が進んだ。当たり前の事が素晴らしく感じられる。演目は評判の高いザングーラ


【青空テーマパーク】

開演の18時まで時間があるから、キングダム・オブ・ドリームズで時間をつぶす。屋内に入ると天井には青空が描かれていて、灰色によどんだ屋外の空とよい対比だ。全体的にフードコートと土産物屋が目立つが、高級バーやレストラン、マッサージ屋などもあり、バリエーションに富んでる。ここでは現金使用不可で、支払いはクレジットカードか、入園時に渡されるプリペイドカード。ショーのチケットで入園の場合、必然プリペイドカードは持たないから、買い物はクレジット決済のみ。

屋内のきれいな青空

小広場では一定の時間ごとに演奏やダンスなどのパフォーマンスが行われる。始めは退屈したが、陽が落ちるにつれ(屋内は常に青空だが)、出し物の質が上がってきた。圧巻だったのは、20人ほどの男女のダンスパフォーマンス。インドのクラブミュージックは滅茶苦茶格好良く、それに合わせて踊る華麗な民族衣装に包まれたダンサー達のキレは、鳥肌が立つほどハイレベル。周囲はいつの間にか黒山の人だかりで、背後にいた男はよく見ようと、こちらの肩に両手をかけて背伸びする。やめんか。

開演1時間前の早めの夕食中、お腹から不穏なシグナルをキャッチした。下痢必須のインドに備え、航空券購入日から1ヶ月間ヨーグルトでビフィズス菌を腸内に育て、来印後も細心の注意を払い無難に過ごしてきたが、公演の直前というタイミングで、ついに腹痛がきた。

幸い悪性の下痢では無さそうで、カフェで飲んだコーヒーが原因のよう。水で当たるのは日本でも稀にあったから、1回出せば解決する。ただ、インドのトイレの汚さには、強い気持ちで対処しなければならず、いくらこの施設がきれいで掃除が頻繁でも、この来場者の多さでは安心できない。

だから、開演30分前に開く別館シアターのトイレを狙い目にした。読みは正しく、開館直後飛び込んだ個室はしごくきれい。シャワーホースが備え付けられていて、これがウォシュレット代わりになる。アジアの便器(範囲が広いが)はすぐ紙詰まりを起こすが、新施設だけにその問題も無かった。これで心置きなくショーを楽しむ事が出来る。


【恋とダンス】

劇場の扉は開演時間を過ぎても閉じられたままだった。遅れる理由は見当もつかない。15分後にようやく開き、席に着いた。

遅れている開演だがもう慣れっこ

大掛かりな設備に思わず目を見張った。舞台のフレームには4層の奥行きがあり、劇場の両側面には、正面と同じように大型スクリーンが設置されている。それらに映像を投影することで、箱の物理的な大きさ以上の広がりを表現出来る仕組み。こんな舞台装置は見た事がなく、否が応にも期待が高まる。

ショーの中で、ヒロインが海中を遊泳する場面には感心した。「オペラ座の怪人」のシャンデリラのごとく天井から舟が下ってきて、そこからワイヤーで吊るされた役者が”飛び込み”、宙ぶらりんの状態で観客の10mほど上を”泳ぐ”わけだが、空中遊泳の動きは確かに海中遊泳の動きに見える。天井から舟底を見せて、海中のグラフィックを正面左右3画面に投影する事で、空間を海中に、観客席を海底に表現する事に成功している。


そしてお待ちかねのダンスのシーンが始まった。が、ここでトラブル。踊りが始まった途端、後ろの扉が開いて光が差し込み、一団がぞろぞろと入ってきたのだ。一番良いエリアに着席し、テレビカメラがライトを点けて撮影してるので、よほどのVIPに違いない。着座後も劇場スタッフがひっきりなしに飲み物などを持ってくるから、気が散って仕方なく、周囲の客はもっと迷惑だったろう。

幕間の休憩で判明した彼らの正体は、インド観光相とお付きの連中だった。観光相が壇上に上がりスピーチする。キングダムオブドリームスを賞して曰く「我々はその観光資源とホスピタリティによって、インド観光を一層促進していきたい」けど自分に言わせれば、遅刻して観客の邪魔をした時点で、おもてなしを語る資格に欠けている。開場が遅れたのも彼らの遅刻が原因だったのだろう。

あとで大臣の名前を検索したら、トイレのクリーン化運動の記事などが見つかった。環境改善は大いに賛成だが、投資や規制より先に、その精神を大事にしてほしいものだ。

ショーの内容はボリウッド映画よろしく、分かりやすい筋、読める展開、約束された結末なので、言葉の心配は要らない。日本語同時通訳サービスの貸し出しもあるが、舞台の動きを楽しんだほうが良い。本編後カーテンコールが始まる。このミュージカルで最も楽しい時間は、実はここからだ。

再び音楽が響き、舞台で主役達のダンスが始まると、バックダンサー達が一斉に観客席の通路に散らばって、傍らのお客に一緒に踊るよう促していく。ちゃんとノってくれそうな人を見繕っているから、踊る観客が見る間に連鎖していく。声を掛けられた人達だけでなく、後ろのインド人のおやじも我慢出来なくなって踊り始めた。そんな人が現れると、さらに盛り上がって、見ていてとても楽しい。やがて本当のフィナーレを迎えた時、歓声は終幕後のそれより一層大きかった。

劇場を出ると、みんなツアーバスや車で来ていたらしく、駅方面への出口に向かったのは自分だけだった。霧で周囲の視界が悪く、さっきまでの綺羅びやかな世界が嘘のような寂しい環境。遅い時間でもあり、駅まで歩く気がせず、リキシャを雇い帰路についた。

(2014/12/27〜28)