バラナシの日本カフェ(インド 5)

【イーバカフェ】

渡航前インド関連の本を色々読んだが、そのひとつに『インドで「暮らす、働く、結婚する」』というバラナシ在住の日本語教師のエッセイがあった。その人がオープンし、本にも紹介されていたのが「iba Cafe」。ここで働くインド人スタッフの濃い経歴は、物語の登場人物のように面白く、興味がてら訪れることにした。

場所はゴードウリヤー交差点から南へ1.5kmと近いが、砂埃の中を歩く気にならなかったので、サイクルリキシャを雇う。交差点で屯している車夫達に向かって「イーバカフェ」と声を掛けると、わらわらと5,6人集まってきて各々料金を提示した。交差点近くに陣取る連中ほど人相が悪く「100ルピー」などと吹っかけてくる。

この頃には相場も掴めてきてたので、20ルピー以上は払わないつもりで「10ルピー」と返すと、数名が脱落。大通りから離れるほどに適正額で折り合いが付きやすくなり、結局20ルピーで交渉成立。わずか10円単位のやり取りにせよ、言い値通りではお互い悪い癖になるから、交渉はやるに如かず。

もっとも車夫が行き先を本当に知っているとは期待してなかった。案の定、走りながら頻繁にこちらに訊いてくる。自分もグーグルマップをチェックしてはいたが、信用し切れず、もし間違った指示を出せば、こちらの落ち度になる。「分からないなら人に聞け」と委任を決め込んだ。

車夫に道を尋ねられた道端の老人が、くいっと首をひねって東の小路を指した。正解はあいにく逆方向。道を知らないのに教えてくれる慣習は、悪気は感じないとはいえ、かえって事態が混乱する。ガイド本ではこれを「何とか役に立ってあげたいという親切心の裏返し」と書いている。ものは解釈の仕様だ。

とはいえ、あえて嘘をつくような人もいない。迷った車夫が次に尋ねたのは、少しやんちゃな若者3人組だったが、自分にも英語を交え親切に教えてくれた。この地区の南には名門バラナシヒンドゥー大学(BHU)の敷地があり、そこの学生だったかもしれない。バラナシの胡散臭い雰囲気と最高学府の組み合わせが不釣り合いに感じられるが、それは自分がこの街を全く知らない証拠だろう。

外国旅行中、体調を崩さない限り日本食が恋しくなる事は無いが、今回はインドに拒否反応が出ていたので、店ではおろしポン酢を掛けた鳥丼を注文した。材料は全て国内でまかなったものらしいから、どんなものかと思ったら、鳥のから揚げはから揚げでない何か。

けど、おろしポン酢が味覚に訴える力は強く、インドに居る事を忘れさせてくれた。給仕は本でも波乱万丈な人生が紹介されていた女性。読者が訪ねてきて、好奇の目で見られるのは迷惑かなとも思ったが、多分気にしてないはず。

日が落ちた帰路、街灯の光に浮かび上がった街路は、何世紀分もの古色蒼然を醸し、古いがゆえの美しさがあった。時間を遡った錯覚に陥り、昼間薄汚く見えていた全てにうっとりする。信頼できるリキシャがあったなら、夕暮れの街巡りも愉しかったに違いない。


【聖人あらわる】

バラナシ旧市街は雑多な小路に満ち、ガンガーに近いエリアの道脇には、商店や土産物屋がひしめき合っている。歩く際気をつけるべきは、方向感覚を失わない事と、そこら中の牛の糞。しかもインド人はあちこちに唾を吐き散らすし、牛の小便や生活汚水でぬれた所もあって、道幅が狭いほど不潔の密度が濃くなる。そんな道を裸足で通行する人も多く、あまりの衛生感覚の乖離に頭がくらくらする。

ヒンドゥー教徒が必ず参拝するというヴィシュナワート寺院(黄金寺院)に向かった。ごったがえす人混みの中を、不潔とスリと無遠慮な客引きに気を配りながら歩くのは、距離以上の疲労感。寺院に近づいた頃ふいに騒がしくなり、曲がり角から杖を持った聖人が現れた。杖の尖頭には小さなガラス壷があり、中の聖水を周囲の信者達に振りかけ、信者達は拍手と歓声でそれを讃えている。聖水はガンガーから汲んだもののはずだ。

慌てて進路変更しようとするも、後ろから押し寄せる人波に揉まれ進退窮まった。ようやくその場を脱したが、あらためて寺院を訪れる元気が失せ、見学はお流れに。もっともヒンドゥー教徒以外は入れない聖域ではあった。

短い滞在中ではあったが、聖地バラナシで敬虔な気持ちにさせられるものには出会えなかった。美しいと言われるガンガーの日の出とプージャ(日没後の礼拝)にはややそそられたが、しつこい客引きを避けたい気持ちの方が勝った。


【料金相場の戦い】

ホテルのエアコンは有料だった。部屋に設置されているが、予約料金によってはリモコンが取り上げられる。これは当地の停電の多さが原因で、実際に滞在中、数時間に1度は電気が落ちていた。頻度は以前よりは減っているそうで、仮に停電しても大体3分程度で復帰する。日頃の安定した電力供給の有難みを感じた。

この部屋も暖房が効かず、寒さでまた風邪気味になった。ある朝冷えた身体で摂った朝食は、幾種もの香草と生姜が煮込まれた黒いカレー。ブレンド具合が絶妙の美味で、身体も温まり、医食同源とはこのこと。日本だと体調悪い朝にカレーを食べるなんて思いもしないが、良い意味でそんな常識を忘れる。あとで給仕が、置き忘れていたミネラルウォーターを部屋に届けに来てくれ、そんな小さな親切にも心が安まった。

レセプションでバラナシ空港へのタクシーを手配しようとすると、ホテル予約サイトでは800ルピーの価格表示のところ、マネジャーは「空港での駐車料金と税金を加算して1,000ルピー」と吹っかけてきた。空港からバラナシ駅までが600ルピーが相場だから、800ルピーでも高いのに。

やり取りの最中、そばの女性スタッフが眉をひそめて聞き入ってたので、あとで彼女に「ホテルからでなく、バラナシ駅から空港までのタクシー料金は幾ら」と質問を変えたら、無表情に「900ルピー、規定料金です」と、マネジャーの言い値に沿った回答。部屋の掃除も怠るルーズさなのに、こんな所は抜かりない。

先日泊まったホテルブッダが好印象だったので、空港タクシーはこちらで手配する事にした。サイト表記では600ルピーだったが、メールで問い合わせると700ルピーとの返答。ただ連絡も早かったし、値段交渉の挙げ句返信が来なくなったら余計手間だからOKする。

翌朝ホテルブッダに赴くと、ちゃんとタクシー予約は通っていて、こちらの顔や部屋番号まで覚えていたのには驚いた。支払いに1,000ルピー札を差し出すと、スタッフのおやじが「1,000ルピー受け取ったから、250ルピーのお釣りを返す」と紙幣を丁寧に数えて250ルピー分を手渡した。「...タクシー料金は700ルピーだから、お釣りは300ルピーだ」と返すと、別に不平も言わず、100ルピー札を3枚持ってくる。悪びれない誤魔化しぶりはもはやユーモアの域。

やって来たタクシーは普通車ではあるがきれいな車両で、何だかゴージャスな気分がした。濃い霧の中、空港へぶっ飛ばす。しきりに追い抜きを仕掛けるが、対向車線の視界は真っ白で、スピード狂のドライバーもさすがに躊躇する。それでもチャンスを窺う様子に肝を冷やし、普通に走ってくれと祈る気持ちだった。急ぐ必要がない状況で急ぎ、命をリスクに晒すのは引き合わない。

空港入口で銃を持った軍人に、Eチケットのプリントを入念にチェックされた。日本国内や一部の国の空港では、チェックインカウンターでパスポート提示するだけで搭乗券を発券してもらえるが、インドやヨーロッパなどでは印刷物が必要。その辺の明確な線引きは不明だが、Eチケットのプリントは持参するのが無難。

バラナシ空港 ※Wikipediaより

インドでは空港でもメトロでも、検査はみな武装した軍人が行う。普遍的な光景なのですぐに違和感がなくなるが、隣国パキスタンとの仲が悪い事もあり、テロの可能性と隣り合わせの国情は理解しておきたい。もっとも観光客が被る害というのは、たいてい詐欺や盗難だし、軍人の姿はそんな悪党ひしめく環境にあっては、むしろ頼もしかった。

(2015/12/26)