ブッダと5人の行者(インド 4)

【用心の道案内】

静養の甲斐あって翌朝には体調が戻った。本日の宿はガンガー(ガンジス河)に近い地区にあり、歩くには遠いから、サイクルリキシャを雇う。車夫は無論ホテルの場所を知らないので、目的地をガンガーエリアの中心地ゴードウリヤー交差点と伝える。交差点に近づくにつれ、人と車とバイクの密度が濃くなり、クラクションの騒音もヒートアップし、到着3日目にして漸くバラナシに来た気がした。

ゴードウリヤー交差点からは、グーグルマップを頼りにホテルを目指す。当時自分の端末にはマップに現在地が表示されず、しかも道には道路名の標識が無かったから、現在地の把握がまず難しかった。さらに問題はインドでのグーグルマップ情報の不正確さ。バラナシ1泊目は、タクシーで直接ホテルに乗り付けたが、後で気付いたところ、マップに表示のホテル所在地が東西あべこべだった。そして今、地図上では目的地に近づいているはずなのに、まるで無関係な小路に入り込んでいく。

やむなく一旦大通りまで戻り、たむろしていた車夫達にホテル名や住所を尋ねてみた。するとたちまち5,6人が集まり、その人混みの中から日本語を話す若者が現れた。真打登場かと警戒したが、顔つきや目元は意外に涼やかで、一見して他のリキシャワーラーとは異なる。だがこういう手合こそ、かえって危険かもしれない。

彼はホテル名を呟きながら暫く考えたあと「ああ、そこならここを真っ直ぐ歩いていけば、左側の通りに看板を見つけることが出来ます」と教えてくれた。半信半疑だったが、とりあえず行ってみるしかない。

お礼を言ってその場を離れつつ、何を要求するかと身構えていたら、彼は「ではガンガーで会いましょう」と笑顔で去っていった。なんという爽やかさ。ホテルも教えてくれた所にあり、疑った自分が恥ずかしい。真っ当な道案内はインド滞在中唯一の例で、いまだに印象深い。


【鹿の園】

鹿野苑の名で知られるサールナートはブッダが初めて説法した地。バラナシ市内からは、オートリキシャで往復300~500ルピーが相場で、とりあえず片道200ルピーで商談成立。約10kmの距離だが渋滞で30分ほど掛かった。

仏教の四大聖地のひとつだけに、さすがに観光客が多い。ツアーガイド達はチケット売り場で行儀よく並んでいるが、それを無視して横から窓口に手を突っ込む輩がここにもいて、後ろから抗議されると何やら喚き返している。入場料100ルピー。近くに居た小さな子供2人があれこれ教えてくれようとするが、ガイド料云々であとで揉めると思いやんわり遮る。すると「お金じゃないんだよ」と悲しげに呟いたので、後味の悪い思いをした。公園内に入ると、街の喧騒や埃っぽさと無縁の閑静があった。

往時は僧坊だった場所

ブッダは当地で5人の修行者を弟子とし、現在に続く仏教教団が誕生した。元々お守り役だった彼らは、苦行を放棄したシッダルタに失望し袂を分かっていたが、結局元鞘に収まった格好だ。ブッダの方でも、ガヤで悟りを開いた後、わざわざ200km以上離れたこの地にやって来たのは、5人の行者を頼った可能性もある。

この間のいきさつには想像が膨らむ。バラモン出身とされる5人には、彼らなりの教義があったと思われ、ゆえに方向性が異なるシッダルタを見捨てたが、カピラヴァストゥに戻らず、バラナシに南下したのは、恐らくカピラ国王への気兼ねだろう。しかし聖地バラナシにおいて、遠国の異人である彼らは、強固な地盤を持つ在地宗派と相容れなかったと思しく、それがブッダと邂逅できた要因ではなかろうか。

7世紀に三蔵法師こと玄奘がサールナートを訪れた時は、1,000人以上の僧が暮らしていたそうで、緑に囲まれた広大な敷地の環境は、今で言えば大学キャンパスの様相だったろう。青い空と濁りのない空気は、都心部とは別世界で、そこらに遺る煉瓦の遺跡は、往時の面影を微かに覗かせていた。

ちなみに玄奘の頃は、まだダイバダッタの教団が存続していたという。宗派ごとの棲み分けが出来ていたのか、異端宗派が1,000年以上続いたのは驚き。戒律の厳しさがウケている、という台詞が手塚治虫の漫画にあったが、それもまた宗教が人を引きつける一要素なのかも。

心地よい公園といった雰囲気

この地のランドマークは巨大なダメークストゥーパ。ストゥーパとは仏舎利(ブッダの遺骨)を収めたとされる塔のことで、敬虔な仏教徒にとっては重要な場所。ストゥーパに手を当ててひたすら瞑想している人も居れば、身体を投げ出して祈りを捧げている人もおり、改めてここが聖地であることを実感する。

人と比べれば巨大さが分かるストゥーパ

坂の麓では整列した学生たちが記念撮影をしていた。好天のピクニックは楽しい記憶になるだろうと眺めていると、坂の上で犬が交尾を始めた。彼らの頭上がそんな展開にも関わらずカメラマンは撮影をまったく躊躇わない。しばらく後、写真を覗き込んだ学生達が爆笑してたので、どのみち楽しい思い出にはなっただろう。

日本の奈良公園の鹿はここ鹿野苑が由来。墓地で見かける卒塔婆もストゥーパが起源で、書かれてある梵字もインド発祥。インド文明の日本への影響は身近な所に見受けられるが、何もかも異なる当地にそのオリジナルがあるのは不思議な気分がした。

柱の残骸

オートリキシャでの帰り道、行きと同様、途中で見知らぬ客が乗り込み、金も払わないまま降りていった。どういうシステムかと頭をひねっていると、ふいにリキシャが2人乗りのバイクと衝突した。が、運転手は横転した相手を気遣うどころか、「気をつけろ!」とばかりに怒鳴りつけ、そのまま気にも留めずに発車。かといって悪辣な男というわけでもなく、ゴードウリヤーで降りた際、ガンガーの方向をきちんと教えてくれた。


【ガンガーの火葬場】

ゴードウリヤー交差点からガンガーまでは車両通行禁止なので、そこから500mほどの距離にあるダシャーシュワメード・ガートまで歩く。ガートとは沐浴や洗濯を行う場で、水辺に面する階段。ダシャーシュワメードはガンガー沿いに数あるガートの中でも規模が大きい。そこに向かって進めば進むほど、胡散臭い連中が声を掛けてくる回数が増える。

日本語で喋りかけてくる相手には、面倒なので他国人を装った。英語で「何語を話してますか?」と応じると 相手はあれっという顔をして離れていく。この対抗手段は結構有効だったが、魑魅魍魎の密度はデリーよりさらに濃く、下手に目が合ったら必ず近寄ってくるので、あたりを見物する余裕がない。

ガートに通じる道幅の狭いポイントに、古びた金属探知機のゲートが2台置かれていた。その1台を前に牛がぼーと突っ立っている。まるで探知機をくぐろうかくぐるまいか迷っているように見え、思わず吹き出した。傍らの乞食の母子もやはりくすくす笑っている。ここを通り抜けるとガンガーの眺望がひらけた。

想像してたよりも川幅は狭くて、泳いで渡れそうなくらい。早朝は沐浴、夕べは祭祀にテンションが高まる場所だが、昼下がりはさすがに静か。「ボート?」と客引きがさかんに声を掛けてくる。ガートはガンガーに沿って延々と連なっており、火葬場ととして知られるマニカルニカ・ガートに向かって北へ進んだ。

あたりは牧場のごとく牛がたむろし、大量の糞がそこら中に散らばっている。臭いも強烈だが、牛が小便し始めると小さなバケツをひっくり返したくらいの飛沫を撒き散らすので要注意。もっとも聖獣の排泄物は神聖であり、牛尿や牛尿入りソフトドリンクも市販され、その効能たるや、知能と意識を高いレベルに引き上げ、損傷した細胞を活性させるほど。プラセボ効果と片付けるのは野暮だ。頭上の木々を見上げると、何百というサルが飛び回っている。最初は驚くが見慣れてしまうとそれが自然になり、動物園こそ不自然に感じられてくる。

右手に河、左手にはガート、ガートの合間には安宿という景色が続き、宿の外見の汚さは比類ない。一体人が住める所なのかとそら恐ろしく、一度入ったら二度と出てこれない気がする。道すがらには所々広場があり、若者がクリケットに興じていた。公園で野球する昭和の風景みたいで、バッティングや捕球は結構上手い。ボールは1球のみだったが、打球が階段側に飛べば勝手に跳ね返ってくるし、河に飛び込んだら誰かが平気で取りに行く。ボールは水をたっぷり吸って重そうだ。一緒にやるかと誘われたが、到底対応できそうになく遠慮した。


10分ほど歩くと煙が上がっているのが見えてきて、そこがマニカルニカガート。この地で火葬され遺灰を聖なるガンガーに流すことがヒンドゥー教徒の願いであり、その為死ぬ間際を見計らって訪れる人もいるほど。その為の建物も設置されているが、小康を得て一旦家に戻る例もあるそう。年中火葬が絶えないだけに、ここの管理者の財産は膨大だという話を何かで読んだ。

既に2つほど火葬が進んでいたが、新たに白い布に包まれた死体が運ばれ、組み上げた薪に降ろされた。長身なので男性だろうが、ここから距離があるせいか、さほど生々しさは感じない。むしろ印象に残ったのは、近くに居たヨーロッパの家族連れの、悲しいというかショックというか、そんな感情がない交ぜになった表情だった。土葬文化だけに、死体とはいえ人を焼くという行為自体に、我々より衝撃の度合いが深いのかもしれない。

もちろんここにも怪しい客引きが沢山いて、見易い場所に案内すると誘ったり、ガイドを勝手に始めたりと邪魔をしてくる。ただ、火葬場見物もそれほど良い趣味とはいえない。火をつけるところまで見たかったが、そこまでこだわるのは礼を失すると思い、その場を切り上げた。背後では客引きが腹いせに日本語で罵声を投げかけている。

聖なるガンガーといっても、信心無き自分には響くところはなく、不潔さだけが目に付く場所だった。ガンガーの水質汚染も公然の事実。夜明けの美しさを堪能する事は無かったが、早朝から出掛けたり、ボートの値段交渉や船上でのリスクを負ってまでこだわる価値を感じなかった。勿論それは、異邦人の勝手な所感に過ぎず、何が聖なるものかはその人次第で、客観的なものではない。当時の自分は余裕が無かったのだろう。

人と動物と糞とゴミがぐちゃぐちゃになったこちら側に比べ、対岸は見渡す限りの砂地が広がり平和そのもの。誰も住まないから建物も一切無く、至ってきれいに見える。「不浄の地」と呼ぶそうだ。

(2014/12/25)