【鉄の鎖】
人類史においてユーラシア大陸の主役は、近現代を除けば概ね遊牧民族で、中でも強盛を誇ったのがテュルクだった。これは一般にテュルク語系言語を話す人々のことを指し、なので現在のトルコ共和国もこの範疇におさまるが、トルコという単語が限定された地域・民族・言語を示すのに対し、"テュルク"はより大きな括りとして用いられる。
彼らの広大な移動範囲と強大な武力は、中国、インド、西アジアの大文明をしばしば圧倒し、侵食し同化してきた。史書を記すのに不熱心だった為、東西の農耕民族による史観では常に蕃族扱いされるが、逆に蕃族視点から世界史を眺めると、まるでだまし絵のように、大陸の覇者としての存在感が浮かび上がってくる。
かつて陸軍士官学校だった新市街のイスタンブール軍事博物館には、テュルクの栄光と民族膨張の歴史から、トルコ革命までが包括的に展示されている。軍楽隊の演奏パフォーマンスも有名で、世界史好きなら訪れて損はないスポットだ。アクセスはメトロM2線のオスマンベイ駅(Osmanbey)から南に直進して10分ほど。カメラ持ち込みは別料金だが、スマホ撮影はOKとのことだった。
出土品や遺物を眺めるにつけ、自分がテュルクに関して、服装にせよ武具甲冑にせよ、具体的イメージをまるで持っていなかった事に気付かされる。同じ遊牧民でも、モンゴルと違って日本との接点が希薄なので、その分馴染みが無い。
また一口にテュルクといっても、行動範囲がユーラシア大陸に及ぶ為、地域や時代によって実態が大きく異なり、習慣・文化には不明点も多い。今後の研究や発掘調査の成果を待たねばならないが、見学を通じて無知の部分が視覚化されていく感じはあった。
注意したいのは、この博物館では匈奴やフン族までトルコ人の祖先として含めるなど、テュルクの定義を意図的に幅広くしている事。離合集散と混血の繰り返しで、何がテュルクで何がそうでないかの区分はつけ難く、ゆえに、そこを拡大解釈して民族の偉大さをアピールしている点は割り引くべき。もっとも軍事博物館とは元来国威発揚の役割を担うので、トルコに限らない話ではある。
Ottomanと英語表記されるオスマン帝国関連の展示で目を引いたのは、コンスタンティノープル防衛時、金角湾への敵艦隊侵入を防ぐ為に湾口に敷かれた鉄鎖。ガラタ橋の長さが約500mで、絵図を見る限り鉄鎖は橋の位置より外側だから、全長約7~800mといったところだろうか。
展示物はその一部で、戦闘時に筏などを用いて海面すれすれに張られていたもの。容易に切断されないよう鎖はひとつひとつ太く作られ、これ一本で大船の足を止め、三角形都市の一辺、金角湾沿いを護れるわけだから、コスパの高い仕掛けと言える。この邪魔な鎖があったがゆえに、史上名高い艦隊の山越え作戦が敢行された。
展示が近代に下ると、フェズと呼ばれる円筒形のトルコ帽が目につき始める。現在はあまり見られないが、トルコらしさと言えばこの帽子が思い浮かぶ。近代化路線の一環としてターバンの替わりに導入されたものだが、当時すでにオスマン帝国は落日の途上にあったので、没落の象徴に見えなくもない。
パフォーマンスのポイントは華麗な衣装。鮮やかな赤と緑の軍装は、運動しにくそうなロングコートと、背中まで垂れるイェニチェリ帽子がひと際目立つ。軍鼓に合わせて管楽器が高らかにエキゾチックなメロディを奏でる。いかにも士気を鼓舞しそうで、戦機に鳴り響けば今で言う野球のチャンテみたいなものかと想像した。
ちなみに日本の軍楽隊は、薩英戦争の際英国海軍の演奏に感化された薩摩藩の導入が端緒とされる。戊辰戦争時の軍歌「宮さん宮さん」は名曲で、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも引用されたほど。最近は自衛隊の音楽隊コンサートも人気らしく、吹奏楽が様々なシーンに浸透するほど、メフテルの意義や価値もより上がっていくかもしれない。
彼らの広大な移動範囲と強大な武力は、中国、インド、西アジアの大文明をしばしば圧倒し、侵食し同化してきた。史書を記すのに不熱心だった為、東西の農耕民族による史観では常に蕃族扱いされるが、逆に蕃族視点から世界史を眺めると、まるでだまし絵のように、大陸の覇者としての存在感が浮かび上がってくる。
かつて陸軍士官学校だった新市街のイスタンブール軍事博物館には、テュルクの栄光と民族膨張の歴史から、トルコ革命までが包括的に展示されている。軍楽隊の演奏パフォーマンスも有名で、世界史好きなら訪れて損はないスポットだ。アクセスはメトロM2線のオスマンベイ駅(Osmanbey)から南に直進して10分ほど。カメラ持ち込みは別料金だが、スマホ撮影はOKとのことだった。
出土品や遺物を眺めるにつけ、自分がテュルクに関して、服装にせよ武具甲冑にせよ、具体的イメージをまるで持っていなかった事に気付かされる。同じ遊牧民でも、モンゴルと違って日本との接点が希薄なので、その分馴染みが無い。
また一口にテュルクといっても、行動範囲がユーラシア大陸に及ぶ為、地域や時代によって実態が大きく異なり、習慣・文化には不明点も多い。今後の研究や発掘調査の成果を待たねばならないが、見学を通じて無知の部分が視覚化されていく感じはあった。
注意したいのは、この博物館では匈奴やフン族までトルコ人の祖先として含めるなど、テュルクの定義を意図的に幅広くしている事。離合集散と混血の繰り返しで、何がテュルクで何がそうでないかの区分はつけ難く、ゆえに、そこを拡大解釈して民族の偉大さをアピールしている点は割り引くべき。もっとも軍事博物館とは元来国威発揚の役割を担うので、トルコに限らない話ではある。
Ottomanと英語表記されるオスマン帝国関連の展示で目を引いたのは、コンスタンティノープル防衛時、金角湾への敵艦隊侵入を防ぐ為に湾口に敷かれた鉄鎖。ガラタ橋の長さが約500mで、絵図を見る限り鉄鎖は橋の位置より外側だから、全長約7~800mといったところだろうか。
金角湾封鎖に用いられた鎖 |
展示物はその一部で、戦闘時に筏などを用いて海面すれすれに張られていたもの。容易に切断されないよう鎖はひとつひとつ太く作られ、これ一本で大船の足を止め、三角形都市の一辺、金角湾沿いを護れるわけだから、コスパの高い仕掛けと言える。この邪魔な鎖があったがゆえに、史上名高い艦隊の山越え作戦が敢行された。
金角湾封鎖絵図 |
展示が近代に下ると、フェズと呼ばれる円筒形のトルコ帽が目につき始める。現在はあまり見られないが、トルコらしさと言えばこの帽子が思い浮かぶ。近代化路線の一環としてターバンの替わりに導入されたものだが、当時すでにオスマン帝国は落日の途上にあったので、没落の象徴に見えなくもない。
【トルコ行進曲】
軍事博物館の目玉、軍楽隊の演奏は15時から。立派な設備の円形ホールが会場で、正面にはトルコ国旗とケマル・アタテュルクの肖像が掲げられている。はじめに軍楽隊メヘテルハーネのあらましを説明するビデオが上映される。ことに西洋のクラシック音楽に与えた影響が誇らしげに語られるが、今日の軍楽(メフテル)は逆に西洋音楽の影響を受けており、オスマン時代のものとは異なるらしい。海外公演もこなす楽団員たち |
パフォーマンスのポイントは華麗な衣装。鮮やかな赤と緑の軍装は、運動しにくそうなロングコートと、背中まで垂れるイェニチェリ帽子がひと際目立つ。軍鼓に合わせて管楽器が高らかにエキゾチックなメロディを奏でる。いかにも士気を鼓舞しそうで、戦機に鳴り響けば今で言う野球のチャンテみたいなものかと想像した。
ちなみに日本の軍楽隊は、薩英戦争の際英国海軍の演奏に感化された薩摩藩の導入が端緒とされる。戊辰戦争時の軍歌「宮さん宮さん」は名曲で、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも引用されたほど。最近は自衛隊の音楽隊コンサートも人気らしく、吹奏楽が様々なシーンに浸透するほど、メフテルの意義や価値もより上がっていくかもしれない。
【山越えの目撃者】
イスタンブールは坂道の街。敷き詰められた石のタイルとアップダウンに備え、歩きやすい靴で臨みたい。ガラタ塔は高さ約70mにすぎないが、立地が丘の上だからそれ以上の存在感があり、展望台から眺める市街のパノラマは見もの。ビザンティン時代に建てられ、十字軍侵入の惨禍後、ジェノヴァ人によって再建されたが、1453年の攻防時このカラキョイ地区はジェノヴァ人の居留区だった。ヨーロッパの街と同じタイル舗装 |
金角湾封鎖に対するメフメト2世の対抗策が先述の艦隊の山越え。金角湾入口より北の沿岸から、カラキョイ地区を東西に貫く形で、湾内に通じる道路を整備し、軍船を次々に滑り込ませた。丘陵なので、上陸させた軍船は引き上げて運搬する必要があり、それに要する資材と設備と労力は並大抵のものではなかったはず。それを秘密裏に速やかに確実に実行したところに、メフメト2世とオスマン帝国の強さが凝縮されている。
実は金角湾内への艦隊侵入による軍事上の効果は定かではなく、落城が更に1ヶ月後という事実を鑑みると、致命的な一手だったとは言い難い。ただ守備側に与えた衝撃は大きかったと思われる。これほどの作戦は容易には諦めないという攻撃側の覚悟を示しており、メフメト2世の狙いが端から心理的ダメージだったかはともかく、必ず街を陥とすいう決意を、敵だけでなく自軍に対しても表明する、強烈なデモンストレーションになった。
山越えのコースはガラタ塔の北側を通っており、ジェノヴァの居留民は、工事の進展も軍船移動の様子も、塔の特等席から手に取るように把握していたはずだ。それは展望台で当時と同じ位置から街を見下ろすとリアルに実感できる。
ガラタ塔から東方面、艦隊上陸地帯の眺望 |
ジェノヴァ側は事態を見知りながら、ついにキリスト教仲間の危機を傍観した。眼前に展開する巨大な力を前をしては、洞ヶ峠を決め込むしかなかったのだろう。そして山越えの成功を見届けた上で、戦いの行く末に見切りをつけ、戦後の態度を決めたに違いない。
ガラタ塔から西方面、金角湾内の眺望 |
ガラタ塔へはタクシム広場から2km弱、徒歩20分程度。路面電車でも塔のそばまでアクセスできる。天辺へはエレベータが通っており、レストランも併設され、外見と違って近代的。展望通路は大人2人がかろうじてすれ違える程度の狭さ。危険さは無いが、高所が苦手な人にはスリルがある。通行渋滞を避けるため、長く立ち止まらず、写真は速やかに撮るべし。
ビザンティン時代から建つガラタ塔 |
古絵図でのガラタ塔の頭は平坦で、現在の尖った三角屋根は後年付けられたもの。帽子姿はそれなりに似合っているが、昔の姿のままでも良かったという気はした。
【店内の鯖サンド】
ガラタ塔から南に少し歩けばガラタ橋にたどり着く。ずらり居並ぶ釣り人が竿を垂らす様と、彼方でライトアップされたスレイマニエ・モスクの組み合わせが、趣きある光景を作っている。魚籠の戦果を覗くとそれなりに釣れているようだった。ガラタ橋の釣り人たち。夕食用? |
橋は2層で、下層には潮風と鯖を焼く臭いが溜まっている。レストラン街がここに連なり、鯖サンド目当ての観光客を狙った呼び込みが多い。それに誘われるのを避けて、適当に小綺麗な店で鯖サンドを注文したが、皿に載って出されると妙に違和感。こういうのは外で手渡され、景色を眺めながらカブりつくもので、味はまあまあだったが、名物の楽しみ方を間違えた。
【香り高いコーヒー】
エミノニュのエジプシャン・バザール (Mısır Çarşısı) は、規模が適当で地元客も多く、市場巡りとしては、グランドバザールよりもお薦め。エジプトがオスマン帝国領だった頃、その産物がこの地に集積されていたのが名の由来。別名スパイス・マーケットというだけあって、中は香辛料のにおいに満たされ、香りの渦に生活の空気を感じる。ピラミッド型に積み上げられている色とりどりのスパイスは展示品のようにきれい。スパイスと生活の匂いに満ちた市場 |
ディスプレイも整っていて見栄えが良い |
市場での目的は有名店「メフメットエフェンディ」のコーヒー。ヨーロッパのコーヒーはトルコ経由で伝わったという説(1683年第二次ウィーン包囲時)もあり、本場の味を持ち帰りたかった。店付近には豊かな匂いが漂い、関心の無い人すら惹き付けている。行列が途切れないが、店員の作業は無駄がなく、お客も慣れた感じでさっと注文してすぐ商品を受け取るなど、さほど待ち時間は無さそうだった。
販売はコーヒー粉をグラム単位で売るスタイルで、最小単位50gから最大1kgまでが、おもての料金表に明記されている。あらかじめ購入したい袋と合計金額を整理しておけば、スムーズに会計できる。滞りなく支払いを済ませ、香り高いコーヒー粉を包んだ茶色の四角いパックを手にし大いに満足。
値段は2013年当時、50g=1.5リラを基準とし、あとは重量に応じて100g=3リラ、1kg=30リラといった具合。 淹れるにはコーヒー器具が必要だが、後日手持ちの台所用品で試みたところ上手くいかず、台無しにしてしまった。ついでに必要器具を買っておくのも良いかもしれない。
数珠つなぎに吊り下げられた丸看板 |
商人たちが礼拝しやすいという便宜上、バザールとモスクが併設されている所があり、中でもリュステムパシャ・ジャーミィ (Rüstem Paşa Cami) は青いタイル装飾で名高い。場所が分かりにくく、入口の案内標識を見つけたものの、観光客はおろか周囲に人もおらず、本当にここだろうかと躊躇った。