コンスタンティノープルを攻める (イスタンブール 2)

【鉄壁の守備】

文明の要衝イスタンブールは、もとの名をコンスタンティノープルといい、ローマ帝国を自認するギリシア人(≒ ギリシア語を話す人々)から成る都市だった。東ローマ帝国もしくはビザンツ帝国という呼称は、東西分裂(395年)前のローマ帝国と区別する為、域外の人や後世の人が便宜上つけたもので、ビザンツは古代ギリシアの都市ビザンティオンに因んでいる。

ローマ帝国であり、キリスト教圏であり、ギリシア的だったこの都市が、なぜ現在トルコ共和国であり、イスラム教圏であり、トルコ語が話されているのかと言えば、1453年オスマン帝国に占拠されたという一つの事実に起因する。その攻防の最大の焦点が、堅固な三重構造の城壁だった。テオドシウスの城壁として現存するこの史跡を訪れた。

兵どもが夢の跡(トプカプ門付近)

街を三角形に見立てた場合、マルマラ海と金角湾が天然の障壁になる海側2辺に対し、陸側の1辺は大兵力での攻撃が可能な為、街を護る城壁は鉄壁の盾でなければならなかった。城壁は全長6.5kmの長さで、見学は点在する城門を拠点とするのが一般的。

中でも保存状態の良いトプカプ門エディルネ門イエディクレ門の3つがメインになる。もし旧市街を起点にするなら、T1線スルタンアフメット駅→T1トプカプ駅 (Topkapi) →T4エディルネカプ駅 (Edirunekapi) と乗り継げるので、トプカプ門からエディルネ門の順番がスムーズだろう。

大城壁の主要3門の位置図

トプカプ門という呼び名について、トルコ語でトプは「大砲」、カプは「門」を表す。だから本来はトプカプもしくはトプ門と呼ぶべきだが、トプカプだとトプカプ宮殿と紛らわしいし、トプ門という日本語表記も見かけないので、トプカプ門で通す。

トルコは地震が多く城壁もその影響を受けているが、構築以来1,000年間、外敵からビザンツ帝国を守り、さらに500年のちの今日まで原型をとどめている。重厚な防御を打ち破るため、征服者メフメト2世は桁外れの巨砲を用意して攻城戦に臨んだが、このエピソードは巨砲よりむしろ城壁の存在感を際立たせていると思う。

城壁は漆喰で塗り固められていた

オスマン軍がここを攻めたと最初に知った時、素朴な疑問があった。トルコ人はアナトリア半島を発し、東から西へ軍船を進めたと思っていたから、なぜ西から東に向かい、陸地の城壁を攻撃する事になるのかと。史実としては、アナトリアに興ったオスマン朝は、徐々にバルカン半島のビザンツ帝国領を侵食し、14世紀末にはアドリアーノプル(現エディルネ県)に遷都していた。そののち包み込むように帝都を陥しにかかったのである。

側面の一部が崩れている

多民族を取り込んだ経緯から、単純にオスマン帝国=トルコ人の国と見るのは適切ではない。イスラム化トルコ人を支配層とする中央集権国家ではあったものの、版図に様々な民族、宗教、言語を包括する性格上、その統治はイデオロギーに縛られ過ぎない緩やかなものだった。このあたりは同じ遊牧民のモンゴル帝国とも共通する。

城壁好きは崩れ具合に趣きを感じる

デヴシルメなる現地人の活用はオスマン帝国の特色の1つで、年少のキリスト教徒を徴集して教育訓練を施し、スルタンの親衛隊として勇猛を謳われたイェニチェリは特に有名。キリスト教徒の根拠地を攻撃したのは、そんな部隊を中核とした大軍団だった。

公園ののどかな風景(トプカプ門付近)

城壁の外側は広大な公園で、崩れ方や荒廃ぶりは時の経過を示して味わい深い。そばの歴史博物館パノラマ1453は、ドーム型室内の360度ジオラマが見もの。周囲に攻城戦の様子が描き尽くされ、所々に配した武器や軍事物資のレプリカもリアル。館内に鳴り響く軍楽が臨場感を盛り上げ、今立っている所が、1453年の実際の戦地だった事実が、より重みを感じさせる。


ただ世界史有数の戦場跡だけに、もう少しアピールする余地はあるように感じた。映像を駆使して飛ぶ砲丸や動く兵士を再現させたり、専用ゴーグルを貸出し、実際の城壁ではARを提供しても面白そう。観光地化し過ぎるのも問題なので、按配は肝要だが。

テオドシウスの城壁(トプカプ門付近)
パノラマ1453ドーム室内に描かれた戦闘図

パノラマ1453は、地元の小中学生や警護付きの要人が訪れるなど賑わっていて、T4トプカプ駅から近くもあるし、歴史好きにお薦めできる穴場だった。次の見学地エディルネ門へはトラムでT4エディルネ駅に移動する。

使い易いトラム。トプカプ駅からT4線でエディルネ駅へ。

トラムは広島や松山の市電と同じ感覚。出入りの際改札を通すが、イスタンブールカード対象なので利用は簡単。本数は頻繁で車両は新しくてきれい。渋滞の多い街だけに利便性高い乗り物だった。
参考:トラムヴァイの利用方法


【陥落の帝都】

エディルネ門は帝都陥落後メフメト2世が入場した門として知られる。幅も高さも狭く、ミニバンが窮屈そうに通っていく。要塞の城門という性格上、大勢が通れない造り。門の内側すぐにバスの発着所があり、城壁に沿っては新築と思しき住宅が並んで閑静な雰囲気。付近にはカーリエ博物館というモザイク画で有名な教会跡もある。

外側から見たエディルネ門
エディルネ門内側。朽ちた壁と対照的な新築住宅。

城壁の上に登ってみた。足元は一部土がむき出しで掴むものも無く、登るのを諦める年配の観光客もいた。テオドシウス城壁は全般にあまり整備されず、放置状態の観さえある。人の手が入り過ぎていないのは、史跡として決して悪いことでもない。

修復されていないところに価値がありそう

城壁の上からは、東南にスルタンアフメット地区が望め、ブルーモスクの遠景が目に入る。陥落の日、城壁が突破されたのは早朝だった。占領軍兵士には慣例として略奪が許可されたが、都市の再利用を念頭に置いていたメフメト2世によって、破壊は比較的最小限にとどまったという。オスマン兵は捕虜の人身売買や身代金を目当てにしたので大虐殺も発生せず、戦死者も激戦となった城壁付近だけにおさまったようだ。

エディルネ門城壁上からアヤソフィア方面を望む

エディルネ門から入場したメフメト2世は、そのまま直進してアヤソフィア大聖堂に赴いた。そこでビザンツ帝国の総本山をモスクに改修すると宣言し、帝国の滅亡とコンスタンティノープルの占拠を公にした。征服戦は、2度目の即位後間もなかった若いメフメト2世にとっても、伸るか反るかの賭けだった。勝負は吉と出、城門からアヤソフィアまでの約6kmは、絶対権威を確立したスルタンのビクトリーロードとなった。


【恐怖の階段】

イェディクレ門は城壁の南端にあり、アクセスは前記の二門に比べてやや難がある。最寄り駅はカズルチェシメ駅 (Kazlıçeşme) 。この路線はトラムではなく、マルマライという海底トンネル地下鉄で、旧市街からだとシルケジ駅(トラムとは別)と繋がっている。カズルチェシメ駅からは徒歩10分ほど。

イェディクレとは「7つの塔」という意味で、各塔を結ぶ城壁が星型に展開している。一応博物館と銘打ってはいるが展示物も無く、かろうじて入口のチケット売場だけが機能していた。

ひと気の無いイェディクレ内部

この元要塞はオスマン時代には牢獄として使用され、17世紀にスルタンがイェニチェリに殺害された事件の現場でもある。これは奴隷から特権階級となった彼らの専横を象徴する出来事だった。例によって特に観光地化されてないから、寂寞の中に歴史を感じられる。廃墟と史跡は紙一重。

内壁には一定間隔で楼上への階段が付設されていた。手すりは無いが、傾斜は普通、幅にも余裕があったので登ってみる。が、途中で後悔した。こんな高所から落ちればただでは済まない。かといって階段上で身体の向きを変えるのも怖いから、今更引き返せない。

イェディクレ城壁の上から

冷汗をかき城壁に上がった瞬間から、降りる事で頭が一杯になった。眺めが良い筈の景色はほとんど記憶がなく、地上から聞こえる野犬の咆哮が不気味な運命を予感させる。とはいえ恐怖を先延ばしても仕方ない。吹き晒しの階下を見下ろし、過去長い年月で何人転落しただろうと想像を巡らせた。

写真では恐怖感が全く伝わらない階段

そろそろと一歩踏み出すと、吹く風も無いのに身体が奈落に流れる気がして、生きた心地もなかった。段差は石の大きさに応じてまちまちなので、すとんと踏み外さないよう、一段ずつ両足を揃えて降りる。ビクビクの無様は下に人がいれば見ものだっただろう。着実に歩を進め、落ちても怪我しない低さに辿り着いた時の安堵感は今だに忘れられない。

イェディクレの海に近い城壁は簡素な造り

コンスタンティノープル城壁探訪は、往時を彷彿させる偉観と古色蒼然の魅力を味わえた一方、忘れ去られた遺跡の侘しさも感じた街歩きとなった。人が寄りつかないポイントもあり、安全の確保が前提となるが、ありのままの姿でい続けてほしい気もした。


【ボスフォラスの夕陽】

シルケジ駅から海に向って5分ほど歩くとエミノニュ地区に達する。最寄り駅はT4 Eminonu駅。金角湾に架かるガラタ橋のふもとで、アジア側への船も発着するなど、多くの地元の人が行き交う場所がら、モスクありバザールや問屋街ありの活気に満ちたエリアだ。黒海方面往復のボスフォラス海峡クルーズもこの船着場から出発する。

旧市街の略図と主要スポット

旅行会社からオプショナルツアーとして、ガイドや食事付きのクルーズも販売されているが、船で遊覧するだけなら、エミノニュ桟橋で盛んに呼び込みを行っている海峡ツアーで充分と思う。料金は10TL (2013年当時)。その場で切符を買って乗船する。ルメール・ヒサーリ要塞までを往復する1.5時間のコースで、費用的にも時間的にも満足いくものだった。

10リラの海峡ツアー。傍らには次発便の出発時刻も表示。

船は北東に進み、南西に戻るから、出来れば乗船時間を日が沈む時刻に合わせるとベスト。夕陽に照らされた旧市街とモスクの残影はえも言われぬ美しさで、クルーズの価値を何倍にも高めてくれる。

暮れなずむボスフォラス海峡

今日は城壁だけ見て回った一日だったが、それでも船が出発する頃には陽が傾き始めていた。デッキに出て、薄淡い青空と夕陽で暖色に彩られた街並み、群青色の海面で構成されたボスフォラス海峡をゆったり眺めた。異国ならではの景色を目にする時、その国ゆかりの音楽が脳裏に去来し趣を感じる事がある。パリならフレンチポップス、ウィーンならオペラ、といった具合に。


けど今脳内に響くのは庄野真代「飛んでイスタンブール」なのだった。名曲だが何か違う。船にはカモメの大群がついて回り、手を伸ばせば掴めるくらい接近する奴もいる。以前観光客が餌を与えた悪しき名残だそうだが、かもめの事を考えてたら、今度は渡辺真知子「かもめが翔んだ日」がループし始めた。トルコの楽曲は一つも知らないから仕方ないか。

黄金の夕陽を浴びるガラタ地区と塔

出航したクルーズは、ほどなくガラタ地区に差し掛かった。かつてジェノヴァ人居留区があった所で、丘陵に建つガラタ塔が目印。2大海洋都市国家ジェノヴァとヴェネツィアは、ビザンツ帝国興亡における主要プレーヤー。地中海から黒海まで交易する彼らにとって、コンスタンティノープルは重要な中継拠点で、ビザンツ側もまた、イタリア商人に多大な商業上の特権を付与し、富の吸い上げと海軍力の利用を図った。

なので、この領域で急成長したオスマン帝国は、イタリア人のビジネス上、大きな脅威であると同時に、帝都が陥ちた場合、一層うまく付き合わねばならない相手でもあった。そんな事情から、1453年の攻囲時、ヴェネチアとジェノヴァは、同じキリスト教徒として、貿易特権の保護者だったビザンツ側に資金と戦力を提供したものの、国家としては、建前上中立を決め込んだのである。このあたりにも、陥落が不可避だった状況が見て取れる。

現在は高級ホテルになっているチュラーン宮殿

日が沈むに従って寒さが厳しくなり、船外で景色を楽しむ客も次第にまばらになった。薄暗がりの頃、船はようやくルメール・ヒサーリに達した。メフメト2世がコンスタンティノープル包囲に先立ち、ボスフォラス最狭部に構築した要塞で、対岸のアナドール・ヒサーリと対を成している。海峡の制海権を得る事によって、地中海と黒海方面を行き来する東方交易船をコントロール下に置き、都市を経済的に締め上げた。当時の人々はこの要塞の建設をもって、オスマン帝国の再侵攻を悟ったという。

ライトアップに彩られたルメール・ヒサーリ

ルメール・ヒサーリから北にほどない場所に、ファーティフ(征服者)メフメト2世の名が冠せられた大橋が架かり、ここがクルーズの折り返し地点になる。見所のハイライトもここで尽きる。船は定刻通りにエミノニュに戻った。

(2013/12/25)

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<十字軍とコンスタンティノープル陥落>
一般に「コンスタンティノープルの陥落」は1453年のオスマン帝国の征服を指すが、これが最初の陥落だったわけではなく、その250年ほど前に、ほかならぬ第四次十字軍によって攻め落とされている。同じキリスト教徒でも、ビザンツ帝国が奉ずるギリシア正教と、西欧諸国が奉ずるカトリック間には深刻な軋轢があり、ヴェネチア共和国が西欧諸侯からなる十字軍の輸送と海軍力を請け負うことによって、はたから見ればまるで同士討ちのような侵攻が行われた。ちなみにこの時は、陸側ではなく海側城壁への意表を突いた攻撃が奏功しており、輸送面だけでなく、優れた海上兵力を持つヴェネチアの軍事面の「貢献」が見て取れる。


結果、商圏の拡大に成功したヴェネチアが高度成長の時代に入った一方、ビザンツ帝国は致命的な痛手を蒙り、その後都市奪還には成功したものの、衰退の一途をたどる羽目になった。上記イタリア人の商業至上スタイルは、近代の帝国主義の先駆けのようで興味深い。