世紀末芸術家めぐり (ウィーン 5)

【楽聖たちの関係】

数多の歴史ある都市の例に漏れず、ウィーンも水運の利によって発展した。地図を見ると、市内をドナウ川が袈裟懸けに貫き、中心部リンクは川の西に侍るように位置している。街は古来より、東方と中部ヨーロッパとを繋ぐ中継都市の役割を果たし、大河はその大動脈だった。ホテルは、ドナウ川から北へ三日月状に分岐したアルテドナウ川沿いにあったので、支流ではあるが、オーストリアに来てようやくドナウを目にした。

この流れは下流の中欧諸国を経て黒海に繋がり、黒海は明日訪れるトルコの長大な海岸線に接している。地理的には、ここから船で川下りしていけば、様々な国や文化に通じるわけで、それを思うと一見平凡な川景色も、雄大さをもって映ってくる。

アルテドナウ川の下流の先は黒海

今日はウィーン中央墓地でクラシック音楽の巨匠を参詣してから、レオポルド美術館で芸術観賞という日程。中央墓地へは、U3ジンメリンク駅 (Simmering) からトラムに乗り換え、中央墓地 (Zentralfriedhof) の第2門 (2.Tor) 下車。トラム乗車時間は5分ほど。ジンメリンク駅から墓地までは一本道なので、トラム71番や6番など、郊外東南方面へ向かうものに乗れば良い。

ジンメリンク駅に着いた71番のトラム

ベートーヴェンやシューベルトなど著名な楽聖の墓は区画32Aにある。第2門から敷地に入った後、ドーム型教会が真正面に見える並木道を直進してすぐの左側。広大なエリアではあるが、行き先が同じ観光客も多いので見つけやすい。

静かなウィーン中央墓地

わざわざお墓に足を運んだのは、子供の頃に読んだシューベルトの伝記の影響。内気なシューベルトが勇気を奮い、憧れのベートーヴェンを訪ねるが、極度にあがった挙句、早とちりで部屋を飛び出して、あとで大いに悔やむという顛末だった。

この挿話が事実かはさておき、シューベルトがベートーヴェンを尊敬していたのは確かで、それは彼が生前、ベートーヴェンの墓のそばへの埋葬を願った事からも窺える。不遇なシューベルトの生涯を顧みると、希望が最後に叶ったのはせめてもの結末で、その現場を見たいと思った。

左がベートーヴェン、右がシューベルトの墓

両者の墓は元々別の場所にあったのを中央墓地に移したもの。遺骨が散逸したモーツァルトと異なり、2人の遺骸は確実にここに眠っている。同時期にウィーン在住だった事もあり、ベートーヴェンもシューベルトのことは認識していたらしく、対面も史実。ただ、その才能を見抜き絶賛したかは分からない。そうだったかもしれないし、賞賛した多くの若手音楽家の1人に過ぎなかったのかもしれない。

似た話は他にもあって、若き日のベートーヴェンの即興演奏を聴いたモーツァルトが、「将来彼は有名になるだろう」と洩らしたエピソードもそれ。ならば本人に直接伝えても良さそうなものだ。どうやら創作らしく、両天才の出会いを劇的に演出したわけだが、ありそうな話ゆえに、人口にも膾炙するんだろう。

当地にはヨハン・シュトラウス2世やブラームスの墓も並び、まさにスター集合の様相を呈している。ドイツ人のみならず、イタリア人サリエリの墓もこの地にあり、つまりウィーンに貢献した人々を永遠に讃える場となっている。

ヨハン・シュトラウス2世とブラームス
仲良い2人。奥がシュトラウス、手前がブラームス。

サリエリの悪役扱いは、彼がドイツ人でなかったのも一因とされる。もし、高位の外国人という理由で、宮廷で不穏な噂を立てられたのならば、他者の嫉妬で苦しんだのは、むしろ彼だったという事になる。フランス革命以後ナショナリズムが萌芽していた時代だけに、これもありそうな話だ。


【世紀末ウィーン】

リンク西南にはミュージアムクォーターという芸術区画が設けられ、レオポルド美術館MUMOKなどの施設が固まっている。美術史美術館や自然史美術館のすぐそばにあるから、独立したエリアというよりは、王宮周辺の範囲内という印象。MUMOKの独特の形状がひときわ目を引く。

リンクを隔てて近距離で向かい合うミュージアムクォーターと王宮は、かつて城壁と掘で内と外に隔てられた別世界だった。場所的に王宮に最も近い為、オスマン帝国による2度目のウィーン包囲時、寄せ手はこの一帯に塹壕を掘り、攻城戦を繰り広げた。今その遺構は何も無く、代わりに芸術エリアが設けられているところに、文化都市ウィーンの特色が出ている。

奥の特徴的な建物はMUMOK(近代美術館)

レオポルド美術館に入る。着込んだ服は、暖房の中ではかえって暑いので、まず上着や帽子を荷物ともどもコインロッカーに預けるべし。オーストリアの美術館はどこも、館内のレイアウトがすっきりしていて居心地がいい。作品の脇にタイトルと作者名が白い壁に直接印字してあるのもお洒落。クリスマスシーズンとあって混雑もなく、じっくり見て回れたから充足感が高かった。

レオポルド美術館の外観

レオポルドには世紀末ウィーンを彩った作品が数多い。世紀末云々とは何ぞや言えば、既存観念からの解放と思う。その活動としてクリムトを中心とした分離派の結成が知られるが、それらを含んだより大きな潮流が、19世紀末のウィーンに渦巻いていた。

プロイセン中心の小ドイツ主義により、ドイツ圏から弾き出される格好となったオーストリアは、ハンガリーとの二重帝国で対抗し、東方に開かれた多民族国家としての道を模索する。これが首都ウィーンへ移民が流れ込む一因となり、それによって生じたカオスが新しい文化創出の原動力になった。

グスタフ・クリムト

芸術の革新は人々の意識の変わり目に起こる。保守的な西欧美術を脱逆した斬新かつ大胆な作品が発表されても、それらを認める人々なくして芸術は成立しないし、影響力も生まれ得ない。だから自分は、既存概念を打ち破る作品が受け入れられた土壌や時代背景こそ興味深い。

普墺戦争の敗北と出遅れた産業革命による市民生活の変化は、様々な民族の流入と共に多様な価値観を生み出し、コスモポリスとしてのウィーンの顔を作り上げた。混ざり合いから産まれた文化的爛熟は、小ドイツ主義の落とし子でもあった。

一方、移民の流入で割を食った多数派のドイツ人には不満が募り、当時ウィーンに居たヒトラーなどは、後年その鬱憤を晴らす行動に走る。これは昨今、米国や欧州を席捲したポピュリズムと無縁ではない。そのヒトラーにしても、若き日は芸術家を志すひとりだった事を考えると、当時のトレンドや空気感が伝わってくるようでもある。

シーレ『自画像』 ※Wikipediaより

個人的には世紀末ウィーンとは相性が良いらしく、気に入る作品が多かった。普段は荷物を増やさないのに、絵画コースターのセットをお土産に買ったほど。ところで、シーレが描く人物像はどれもくねっとした姿勢で、「ジョジョの奇妙な冒険」みたいと思ってたら、やっぱり荒木飛呂彦の元ネタなんだそうだ。
リンク: Google art & culture "Leopold Museum"

クリムト『死と生』 ※Wikipediaより

一番のお気に入りは、クリムトの『死と生』だった。画面の3/5を占める”生”の浮き上がるような明るさと、1/5の”死”の吸い込まれるような暗さの色彩の対比、そしてクリムト画の特徴でもある細かく描き込まれた模様が面白い。構図的には”生”が死神に向って寄り掛かり、待ち受ける”死”の姿勢と、両者を隔てる1/5の隙間には、余生と言うべき緊迫感がある。もっとも理屈よりは、その絵を見た瞬間の感覚こそが、心のうちに残り続ける財産になるんだろう。


【となりの物音】

ウィーンでのやるべきリストを消化すると、あとは早目に帰り、翌日のイスタンブール行きの支度をするだけだった。ホテルへの道すがら赤毛の女を思い出した。ホテル予約サイトのレビューで、"レセプションの赤毛の女性スタッフが私語にかまけて仕事しない"、という投稿があり、髪を赤く染める人は少数だろうから、会えばすぐ分かるだろうなと。

天の川のようなイルミネーション

考えてみれば、市井の人でもレビューで指摘されるだけで、外国のゲストにまで認知されるとは、大変な時代になったものだ。そのスタッフは普段は真面目なのに、たまたまお客を放ったらかしてしまい、名を売ってしまったのかもしれない。そして評判はずっと残るのだ。

奇しくもチェックイン時の応対はその赤毛で、知っている人に会ったような妙な気分がした。淡々と業務をこなし何の問題も無かったが、愛想ないなと感じたのはバイアスのせいで、レビューが無ければ気にも留めなかったに違いない。読む方にも客観性が無ければ不公平だ。

治安の良い夜のウィーン

オーストリア最後の宿は中心部からやや外れていたので、価格のわりには広かった。壁がよほど薄いのか防音に難があり、隣室の物音が筒抜け。若い女性の笑い声が引っ切り無しに聞こえてくる。大騒ぎでもないので、不快というほどではなかったが、丸聞こえなのを知らせる必要はあると思い、0時を過ぎるのを待ったあと、ごく軽くコンコンコンと壁をノックした。するとバカ笑いはピタッと止まり、後は静かになった。簡単な動作で意図が伝わり効果を得たのは、ひとえに相手に節度があったからで、そういう意味でも、旅行のし易いヨーロッパらしい小さな思い出になった。

(2013/12/23)