アマデウスの故郷 (ザルツブルグ 1)

【塩の砦】

ザルツブルグに近づくにつれ霧が濃くなり、列車がスピードを落とし始めた。近くに鎮座するドーベルマンは微動だにせず落ち着き払っている。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台に憧れてのザルツブルク訪問で、ウィーンからは鉄道で2時間半、1泊2日の滞在。

駅に着くと観光案内所でザルツブルグカードの購入と、映画ロケ地ツアーの予約を済ませた。このカードは交通機関と市内観光名所のパスになる。有効期限24時間のタイプを選び、日時を記入した時点で発効。今日の昼から明日の昼までパスをフル活用する為、その時間帯を市内観光に充て、効力が切れた明日の午後からロケ地ツアーに参加。その夜ウィーンへ戻る旅程。

歴史ある街ザルツブルグ

市内にメトロはなく、空中に張り巡らされたケーブルから電力を受ける電気バスが足になる。市電とバスの中間のような乗り物で、おかげで空気がクリーンだ。予約したホテル (Arena City Hotel Salzburg) は駅から遠いので早速乗ってみる。

パスがあるので運賃や支払い方法に気を遣う必要はないが、初めての土地だけに、降りる場所やそこから迷わないかに気を揉む。案の定、所定のバスに乗った筈が、思わぬ場所で終点と告げられ戸惑った。近くにはホテルなど見当たらず、急な霧の発生で視界も効かなくなり、文字通り五里霧中。結局どうにかたどり着けたが、あとで見るとバス停はホテルの正面だった。

シンプルなバス車内

ザルツブルグの名の由来は「塩の砦」。岩塩坑自体は少し離れた場所にあり、採掘された塩は、街に沿うザルツァッハ川を利用して各地に運ばれた。大司教が通行税によって潤うこの地を治め、富の集積によって街が発展した。観光の中心となる旧市街は、ザルツブルグ駅から川を挟んで南へ約2kmの位置。この界隈もクリスマスモードで、屋台街は大勢の人で賑わっている。山上にはホーエンザルツブルク城がそびえ立ち、これを目印に歩き出した。

そびえ立つ難攻不落のホーエンザルツブルク城

ケーブルカー(パスで無料)で城塞へ上がると絶景がひらけた。見上げると真っ青な空に浮く太陽が強烈な光を放ち、見下ろすと山に囲まれた箱庭の様な地上を、霧がむき出しだり覆ったりしている。刻々移り変わる景色は息を呑む美しさで、これだけでも当地に来た甲斐があるほど。城塞内には現地由来の展示物もあったが、メインは山上からの光景に尽きる。

白色の筋にわけ隔てられる天界と地界
地界はのどかな風景

【モーツァルト生誕の地】

街に降りたらまた霧に包まれた。一面に薄い乳白色が漂い青空が失せ、建物は冷ややか。冷気は肌に突き刺すというより、真綿で締めるような寒さで、身体の芯まで冷え込んでくる。冷蔵庫に身を置いているような心地がする。

冷気に包まれた世界

旧市街の街並みが次々に映し出される『サウンド・オブ・ミュージック』は、『ローマの休日』同様、観光地プロモーションの要素を持ちあわせている。見覚えある教会や建物を目にして感動するはずだったが、霧のせいであてが外れた。写真を撮ろうにもスマホを取り出す手がかじかみ、ままならない。とても寒い。

黄色い縁取りがおしゃれな教会

適当に歩いているとモーツァルトの銅像に行き着いた。ザルツブルグはモーツァルト生誕の地。近くには大司教の館だったレジデンツ(宮殿)が建つ。ザルツブルグの最高権力者は王ではなく歴代の大司教で、モーツァルトの生家はレジデンツからほどない距離にあり、もともと一家がそれなりの社会的地位(父は宮廷音楽副長)にあった事が実感できる。

ザルツブルグのモーツァルト像

街は教会が目立つが建築群にも存在感がある。レジデンツは豪奢な外観ではないものの、権力者の邸宅に相応しい規模で、内装に贅を尽くした部屋と、代々集められたコレクションが見どころ。内部は白基調の中に赤が施されるシンプルな色合いで、豪華な天井画が装飾の肝になっている。

レジデンツ外観 ザルツブルグカードで無料

モーツァルトが実際に演奏した部屋は特に興味深かった。遺物があるわけではないが、かつて同じ空間にモーツァルトがいたという事実に、現地ならではの感慨を覚える。そのひとつ「会議の間」は、彼が6歳の神童として大司教の前で演奏した場所。ここでの評判がマリア・テレジア謁見に繋がったので、彼の運命を大きく開いた場だとも言える。「騎士の間」では今でも時折演奏会が開かれているそうで、演る方はもちろん聴く方も冥利。場所の活かし方が上手いと思う。

[会議の間] 6歳のモーツァルトが演奏した部屋
[騎士の間] 現役のコンサート会場

そんな大音楽家だけに、子供の頃見た映画『アマデウス』の軽佻浮薄キャラは衝撃だった。初めてモーツァルトを見た時のサリエリも愕然としていたが正に同じ。サリエリが皇帝に献呈した曲をモーツァルトが即座に演奏し、アレンジで良く仕上げ、作曲者の面目を丸潰しにした後、甲高いバカ笑いで場面を締めるシーンはお気に入り。音楽だけには妥協しない姿勢と、スキルを披露した直後に素に戻る落差。天才ぶりと凡人ぶりと、ついでに皇帝の天然ぶりの三様も面白い。

『のだめカンタービレ』に「人格に問題があっても音楽で全部チャラ」という台詞があったが、そんな理不尽が『アマデウス』のエッセンス。人間の業をユーモアと悲劇を交え巧く描き出していた。アメリカ映画とはいえ、ザルツブルクに来るなら『サウンド・オブ・ミュージック』と並んで必見の作品。


【突き出す看板】

ザルツァハ川から通りひとつ隔てたゲトライデガッセ(Getreidegasse)は、千年以上の歴史を持つザルツブルグのメインストリートで、現在は土産物屋やブランド店が立ち並ぶ。突き出した数多くの看板は、字の読めない人でも店の種類が分かるようにしたもので、それぞれ意匠を凝らされ趣味が良い。狭い道幅を大勢の人が往来し、西に向っては絶壁が正面にあるので、袋小路のような圧迫感がある。途中に黄色いモーツァルトの生家を見かけたが、時間の都合上今回は外から眺めるだけ。ちなみにGasseの直訳は小路。

賑わうゲトライド通り

ゲトライデガッセではボスナという名物ホットドッグを食べた。路地裏の少し分り辛い場所にあるが、南側(城塞側)に注意しながら、番地を示す「33」標識か「Bosna Grill」と赤字表示の電光掲示を目印にする。行列が出来る店だが、メニューには番号が振ってあるから注文はしやすい。カリカリのパンと熱々のソーセージが相性良く、スパイスも絶妙で値段は3〜4€。テイクアウトもできるが、冬場は冷めないうちにその場で立って食べた方が美味しく、実際そうする人が多かった。

ボスナの名物店 Balkan Grill Walter

夜が近づき気温が氷点下に達すると、ユニクロのヒートテック素材4枚の重ね着、帽子にマフラーという装備も用をなさないほど身体が凍え、頭がくらくらしてきた。あたりはホットワインを片手に談笑に興じる姿が目につくが、寒さに慣れない身にはそれどころではない。陽が完全に落ちれば、街角のライトアップがくっきりと映え、装い新たな顔を見せ始める。そんな情景をよそに、本日の用事が済んだ自分は、駅方面への道すがら、適当な停留所でバスを拾って帰ることにした。

電飾に彩られたゲトライド通り

旧市街から橋を渡る途上、川の向こうを見やると、霧が街の明かりを全て隠したせいで、墨を幾重にも塗ったような漆黒の闇が広がっていた。こんな濃い黒は見たことが無く、まるで星の欠けた宇宙のようで、吸い込まれたら二度と出て来れない恐怖すら感じた。けどその中には今から帰る宿が存在し、ちゃんと人が居て、明かりがある。

ザルツブルグ駅で一旦バスを降り、SPARで夕食を調達した。こちらのパンは値段のわりに大ぶりなので腹ごなしに良い。翌日帰りの電車に乗る前も、ここで車中食を買ったが、調理パンも菓子パンも上々のレベルだった。商品の種類も豊富だし、スーパーマーケットはオーストリア滞在の友。

暖房がしっかり効いたホテルの部屋に戻ると、まだ19時前なのにベッドに倒れ込みたい衝動に襲われた。厳しい寒さはそれだけで身体を疲労させるようだ。凍えから解放された感覚はえも言われぬ快適さで、この時の幸福感は今でも残っている。

(2013/12/21)