ジャンヌ・ダルク終焉の地 (ルーアン)

【パリの安ホテル】

古都ルーアンはジャンヌ・ダルク終焉の地。パリから近く日帰りで訪問できる。早朝定刻通りボーヴェ空港に着いたので、一旦ホテルに荷物を置いてから、出発駅サン・ラザールに向かうことにした。予約していたTIMHOTELは1泊50€と、Ibis Hotelよりさらに安い部類。エコノミー風の建物に着くと、入口で目の素敵な美人が雑談していて、彼女がレセプションのスタッフだった。

部屋の清掃待ちの間、ここからサン・ラザール駅までの所要時間を訊いた。遠そうなら清掃を待たず発とうと思ったけど、他のスタッフも検討に加わり、まあ間に合うだろうという結論に。フランスでは人々の対応がいつも気さくで好感。エレベータは蛇腹の柵に扉という古いタイプ。廊下は鍵を差し込む手元が見えないほど薄暗く、連れ込み宿ムード満点で、受付にあんな美女が勤めているのは妙な気がした。

ホテルから最寄りのMacel Sambat駅までの道すがら、パン屋にカフェ、バーなど、立ち寄りたくなうようなお洒落な店が目についた。観光客が跋扈する中心部に比べて落ち着いた雰囲気があり、パリの別の側面に触れた気がする。バルセロナより幾分気温が低くなった分、道行く人の服装も心持ち重厚になり、それが両者の街並みの印象を異なったものに見せていた。


【ルーアン街歩き】

モネも描いたサン・ラザール駅 (Paris-Saint-Lazare) は、昔ながらの作りに味がある。改札は無く所定のホームまで移動し、チケットを刻印機に差し込む。カシャッと音が鳴り、時刻が印字されたのを確かめて準備完了。これを忘れると無賃乗車扱いになるので注意。自動券売機の操作はこちらが詳しい。

人の多いサン・ラザール駅構内

列車は地味で古臭い外観に反し、内装は洗練されたデザインで、ギャップが激しい。乗り心地は至極よく、声高に喋る乗客もおらず閑静そのもの。緑豊かな景色を眺めながらのパンとコーヒーのランチは、簡素ながら贅沢で、ルーアンまでの1時間が短く感じられた。廉価のバスやLCCも便利だけど、鉄道旅行も捨てがたい。

地味な外装の特急列車
きれいな内装のSNCF車両2等席

ルーアンの主な見所は駅から徒歩圏内に収まっている。駅の観光案内所は順番待ちが長かったので、寄らずに外に出た。適当に南へ歩くと左手に三角錐の屋根の円塔が見えた。これがジャンヌ・ダルクの塔で、真偽はともかく、ジャンヌが幽閉されていたと伝わる。折角なので入ってみる。

目立つジャンヌ・ダルクの塔

各階には街の歴史にまつわる展示があり、模型なども精密で案外見応えがあった。塔はもともと城の一部で、年季の入った煉瓦や細い窓、最上階に行くほど逃げ場が無い造りは、確かに監禁地としては相応しい拵え。ちなみにジャンヌは一度収監地から脱走を試みている(無論失敗に終わった)。

塔の内部。螺旋階段を登っていく。

街の所々に設置されている観光案内図が便利で、おかけで迷わずに済んだ。次に向かった大聖堂はあいにく改修中。モネが描いた連作で有名だが、様々なパターンの色彩感覚は幻想的で、建物はモデルとして立派に役割を果たした。

一部改修中の大聖堂

ルーアンのもうひとつの顔大時計台は、大聖堂から西へ伸びるグロ・オルロージュ通りの途上に位置し、その先にはジャンヌ・ダルク記念教会がある。大聖堂 ⇔ 大時計台 ⇔ 記念教会の3つのスポットが、500mの直線で結ばれるこの道は古都ルーアン観光の大動脈と言える。

500年の歴史を誇る大時計台

グロ・オルロージュ通りは、目玉の大時計を中心に、石の文化にあって異彩を放つ木造建築の家並みと、お菓子や土産物などショッピングを楽しむ人々で賑わい、散策が楽しい。景観にそぐわない広告や看板が排除され、街そのものが歴史博物館ぽく、タイムスリップした感覚にもなる。文化を重んじる観光立国の矜持を見る気がする。

中世の絵にも描かれている特徴的な家


【ジャンヌの実像】

ジャンヌ・ダルクに興味を持ったのは、その裁判記録を読んだのがきっかけだった。無学文盲の彼女ではあったが、答弁は揚げ足を取られないよう機知に富み、意外な側面が強く印象に残ったのだ。以下史実に残る彼女の特徴を見てみる。

[頭の良さ]
誰かを説得するには筋の通った言動が必須だが、彼女にはその能力があった。聖女扱いされても馬鹿では信望は得られないし、崇拝者となった青髭ジル・ド・レの様な男も出なかったはず。地頭の良さがあり、会う人を失望させる人物ではなかったという推察は可能だろう。

火刑の現場に建つジャンヌ像

[気立て良い性格]
後年の復権裁判で、実際にジャンヌを知る故郷の住民達の証言が残されている。それらを読むと「敬虔」「気立ての良さ」「積極的」「働き者」といったキーワードが浮かんでくる。ポジティブな証言が求められる状況だった点を差し引いても、その声には一定の真実が含まれていると見てよい。従軍後と異なり村ではアグレッシブな印象を与える存在ではなかったらしく、真面目で優しい少女が神の声をきっかけに使命感に取り憑かれた、そんな姿が朧げに見えてくる。

[神の声の謎]
お告げの正体は、精神的な疾患、暑さと空腹による幻聴、と様々な説があるが、一途な性格という要素が根源だったように感じる。一心に信じるからこそ、次第に神の声を恐れなくなったし、あとで疑うことも無かった。ゆえに周囲も同調するし、ひいては敵方すら捲き込まれる、それが歴史の歯車を動かすテコになった。

[容姿について]
軍中で長く兵士と行動を共にしたジャンヌだが、性的な問題は生じていない。短髪という外見もあり、可憐というより中性的で健康的なタイプだったと思しい。ただ人好きするルックスではあっても、美貌だったとは考え辛い。彼女の容姿を描写した記録は存在しないが、目撃談は残っており、関心を集める存在だった以上、もしも人目を引く美しさだったなら、史書にそう記されたはずだ。

火刑台跡に立つ十字架のモニュメント

[兵士のアイドル]
軍事指導者としてではなく、神の声で必勝を謳う神秘的アイコンの要素が強かった。”預言者”扱いされたからこそ表舞台に出てきた事情もあり、彼女自身「剣よりも旗を持つ」と語るなど、士気の鼓舞を本分と捉えていたようだ。それがちょうど困った時の神頼みを求めたシャルル7世一派のニーズに合致した。ただし戦場で勇気を示したのは確かで、それがジャンヌ現象の本質といっても良い。現場で臆病だったなら、戦う兵士が鼓舞される事も、恐らくは勝つ事も無かっただろう。


[裁判での様子]
一方で裁判記録からは普通の10代の女性の顔も窺える。習った仕事を問われ「布を縫ったり、糸を紡ぐことなら、ルーアンの人にも負けないでしょう」という返答などは、自負と茶目っ気が混じっているよう。

現存するジャンヌの直筆

可哀想なのは、改悛の証しとして男装をやめる事を受け入れながら、4日後服装を戻した理由について「女性の服を着ていたら身を守れなかった」と泣いて訴えたところ。再度の男装が異端再犯という処刑の罪状となったが、勿論虐待は意図的だった。処女性を纏っていた彼女の悔しさと屈辱感が伝わってくる。


【火刑台】

処刑時は大声で泣き、火がつけられた後は、イエスの名を呼び続けていたという。

はるか後年、フランス革命時のギロチン台で、いつも罵声や喝采を送っていた群衆が、最後まで泣きわめいた受刑者には同情し、処刑後悄然とした雰囲気が漂ったという逸話があるが、そんな人間の心理を鑑みると、見物人たちの間でもジャンヌに対する憐れみの気持ちが昂ぶった事は想像に難くない。イギリス兵が後悔の言葉を吐いたり、炎に包まれた身体から白い鳩が飛んだといった伝説は、その時の空気をあらわしている。

1431年5月30日ここで火刑が行われた

ジャンヌは仮に処刑されなくとも歴史の隅に名は残っただろう。けれど悲惨な最期だったからこそ、同情心がジャンヌ・ダルクを不滅の存在にした。ブーム再燃のきっかけは彼女を救国の英雄として祭り上げたナポレオンだが、人気はストーリーに訴求力があってこそ。

遺灰はすべてセーヌ川に撒かれた。刑場からセーヌに出るまで歩いて5分。当時と大して変わらないだろう道筋をたどり、川の流れを眺めていると、約600年前の出来事がふと身近に感じられた。

ヴュー・マルシェ広場の周囲には多くのカフェが立ち並び、店によってはテラスにまで客が溢れている。混雑を避け、ジャンヌ像の対面にあるLa Réserveという店に入ったら「こんにちは」と日本語で挨拶された。美人店員3人と人の良さそうな店長。カフェというより夜盛り上がるバーのようで、まだ明るい18時では客もほとんど居ない。

赤ワインを傾けていると、今朝3時起きでバルセロナを発ち、パリ経由でここまで来た疲れがどっと出てきた。酔いの回った頭で、本の中の世界でしかなかった火刑台の跡を茫然と眺める。

店内では、暇な店長がスタッフ全員に飲み物を出していて、中でも入念に作っていた一杯を、一番の美女に差し出したところは、フランス人らしくて可笑しかった。

帰路、車窓からの夕暮れ

2013/9/27

<参考1> ジャンヌ・ダルクの足跡

ジャンヌが生きた15世紀前半のフランス地方は、北部をイギリス軍に支配され、かつフランス王家内でもブルゴーニュ派とアルマニャック派が相争い、ブルゴーニュ派はイギリス側に与してアルマニャック派を圧迫していた。ジャンヌが目標に掲げたのは、このアルマニャック派の王太子シャルル7世を、フランスの正統な王位継承の場とされるランスにおいて戴冠せしめる事だった。その為には、敵軍の半年の包囲により陥落の危機にあった重要防衛拠点、オルレアンの死守が前提となった。

地図でみると、ジャンヌがシャルル7世と会見したシノン城からオルレアンへの道はロアール川に沿っており、このラインが北部と南部を大まかに分け、英仏が対峙する境界線でもあった。当時イギリス領土だったランスはオルレアンから更に北東に位置し、3都市はほぼ一直線に並んでいる。

よってオルレアンの解放に続くランスの奪還は、敵方の領土に楔を打ち込んだ形になり、また空位だったフランス王の擁立は、その後の戦いの名分においても大きな意味を持った。この2つに大きく貢献したジャンヌの功績は、彼女の名声を高める一方、敵方の憎しみを買い、死の遠因となった。

(下図)
1. ドンレミ村で生まれ育つ
2. シノン城でシャルル7世と会見
3. オルレアン解放
4. ランス戴冠(ジャンヌは出席せず)
5. ルーアンにて死去

1,5が生誕と終焉の地、2,3,4が活躍のハイライト

結果的に、1429年のオルレアンの解放とランス戴冠は、百年戦争のターニングポイントとなり、その後シャルル7世の勢力拡大に伴って、1453年イギリス軍がフランス全土からほぼ撤退、今日に至るフランスとイギリス両国の境界線が決定した。


<参考2> SNCF パリ ⇔ ルーアン 

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TRAIN Aller - Retour | PARIS <=> ROUEN | 1 passenger | 28.00 EUR
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Departure: PARIS SAINT LAZARE - 12h50 - 27/09/2013
Arrival: ROUEN - 14h01
Intercités - 03109 - 2e Class
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1er passenger - (between 26 and 59 years)
Prem's : Ticket may not be changed nor refunded.
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Departure: ROUEN - 19h12 - 27/09/2013
Arrival: PARIS SAINT LAZARE - 20h40
Intercités - 13128 - 2e Class
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1er passenger - (between 26 and 59 years)
Prem's : Ticket may not be changed nor refunded.