【現役の廃兵院】
9月半ばのパリは気候が爽やかで旅行には絶好のシーズン。服装は長袖のシャツ、インナーにはその日の気候に応じて薄手と厚手のヒートテックを使い分けた。石畳の道が多いので靴は歩き易いものを。持ち物は肩掛けの小カバンの中に財布、スマホ、ミネラルウォーター、そしてミュージアムパス。朝あたかも日常生活のごとく電車に乗り込むと、窓から眺める街並みは寝不足だった前日とは違って見える。
街歩きプランは優先度の高い順から訪れるのが基本で、行ったり来たりしないよう、ひと筆書きのルートが理想。本日は廃兵院(アンヴァリッド)を出発点とし、オルセー美術館を経て、チュイルリー庭園からコンコルド広場、そして凱旋門へ至るのを、パリ2日目の予定とした。
だだっ広い廃兵院の中庭 |
街歩きプランは優先度の高い順から訪れるのが基本で、行ったり来たりしないよう、ひと筆書きのルートが理想。本日は廃兵院(アンヴァリッド)を出発点とし、オルセー美術館を経て、チュイルリー庭園からコンコルド広場、そして凱旋門へ至るのを、パリ2日目の予定とした。
廃兵院そばにはロダン美術館もある。 |
廃兵院は13号線ヴァレンヌ駅 (Varenne) が最寄駅の1つ。大革命勃発の際、群集は武器を求めてこの建物に殺到し、その後バスティーユへ向かっている。現在も傷病兵が暮らす現役の施設で、日光浴だろうか、移動ベッドに横たわったまま中庭に出ている患者を何人か見かけた。ここにはナポレオンの棺のほか、軍事博物館も併設されており、チケットは共通。
厳しい拵えの廃兵院 |
臙脂色の棺の中には、セントヘレナ島で没したナポレオンの遺骨が納められている。数度の革命を経た結果、王と皇帝を否定したフランス人民ではあるが、元皇帝とはいえ、祖国を何度も戦勝に導いた英雄には格別の敬意が払われた。棺は磨かれたように綺麗で、古さが感じられないが、実際死後200年も経っておらず、案外最近の人物と気付かされもする。
今なお存在感を放つナポレオン(の棺) |
軍事博物館にはフランク王国以来の戦いの歴史を示す膨大な展示品がある。もっとも素人目には、武器や甲冑などはどれも同じに見えるから、兵器への関心と知識が無ければやや退屈。目を引いたのは近代以降の華麗な軍服で、これなら知識不要。ナポレオンでお馴染みの二角帽は時代を象徴する風格があり見栄え良い。デザインした人は天才だ。
フランスが欧州を席捲した19世紀初頭は、しかし別段兵器や生産手段に長足の進歩は無かったと本で読んだ。強さの要因は、高い国防意識(国民皆兵)や、砲兵の有効活用のほか、散兵戦術の普及が挙げられるという。徴募兵の練度不足ゆえ仕方なく採用したところ、密集しない分着弾に対し効果的で、且つ機動性も上がり、戦場で大砲の重要性が増すほど主流になった。先見というより、やむなく取った方法が最先端だったのが面白く、フランスが時流を味方につけていたという事かもしれない。
睥睨するナポレオン像 |
国民国家の勃興がヨーロッパ情勢を動かし、やがて世界の仕組みを変えたが、他国が同じ事をし始めると、フランスの優位は相対的に低下し、ナポレオンの没落に直結する。それから100年も経たないうちに、今度はヨーロッパの大国ロシアがアジアの新興国日本に敗れるに至る。一連の収斂は人間の能力が大して変わらない証だろう。
美しすぎるナポレオン肖像画 ※Wikipediaより |
ナポレオン以降のフランスは、19世紀以降、アフリカやアジアでは威張ったものの、欧州でかつての強さは取り戻せなかった。優れた兵器を開発しても、産業革命を遂げ生産力で勝るイギリスに凌駕されるのが常となり、一国では対外戦争にも負け続けた。相次ぐ大戦争による国土の荒廃、人口の減少が一因とも言われている。
【美術館めぐり】
パリの三大美術館(ルーブル、オルセー、近代美術館)は、すべて歩ける範囲内にある。最も離れたオルセー美術館と近代美術館の間が徒歩約30分、その中間あたりにルーブル美術館が位置している。1日に3つは現実的ではなく、1日2つ「オルセー⇔ルーブル」や「近代美術館⇔ルーブル」と組むのがベター。徒歩それぞれ15分程度。
廃兵院の隣のロダン美術館は意外に見応え充分だった。もと大邸宅だけに庭園もきれい。彫刻に造詣がなくとも、ひと目でロダンの作品と分かるのは、考えてみると不思議。スタイルの確立がアーティストの本分なのだろう。
弟子であり愛人でもあったカミーユ・クローデルの彫刻は個人的にヒットで、独立した作風からは、彼女が一人の芸術家だった事が見て取れる。ロダンに認められず大きな苦しみを味わったが、性が美へ及ぼす影響を鑑みれば、その葛藤が作品に昇華した面はあったかもしれない。
ロダン美術館からオルセー美術館までは北東へ徒歩10分ほど。小腹が空き、途中寄った中華料理店は味も値段も手堅かった。店頭のトリップアドバイザーのステッカーに誘引されたのだが、このフクロウは未知の界隈では旅行者に強烈なシグナルを発している。
セーヌ川に面するオルセー美術館の建物はもとは駅舎で、吹き抜け構造の開放感が特徴。展示は19世紀以降の作品が主で、印象派の例の通り表現の幅が解放された時代だから、多様さが面白く飽きなかった。ロダンの代名詞「考える人」 |
廃兵院の隣のロダン美術館は意外に見応え充分だった。もと大邸宅だけに庭園もきれい。彫刻に造詣がなくとも、ひと目でロダンの作品と分かるのは、考えてみると不思議。スタイルの確立がアーティストの本分なのだろう。
弟子であり愛人でもあったカミーユ・クローデルの彫刻は個人的にヒットで、独立した作風からは、彼女が一人の芸術家だった事が見て取れる。ロダンに認められず大きな苦しみを味わったが、性が美へ及ぼす影響を鑑みれば、その葛藤が作品に昇華した面はあったかもしれない。
カミーユ・クローデル ※Wikipediaより |
ロダン美術館からオルセー美術館までは北東へ徒歩10分ほど。小腹が空き、途中寄った中華料理店は味も値段も手堅かった。店頭のトリップアドバイザーのステッカーに誘引されたのだが、このフクロウは未知の界隈では旅行者に強烈なシグナルを発している。
あとで知ったが、ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」前のガラスのベンチは、日本のデザイナー吉岡徳仁氏の「Water block」なる作品。波打つガラス細工の近代的なセンスは、館内のクラシックな雰囲気と馴染み、印象に残ってはいた。けど美術品扱いするより、心地よい実用品である事こそ大切かも。
オルセー美術館からの対岸の眺望 |
オルセー美術館の対岸にはチュイルリー庭園が広がる。かつて宮殿があった場所で、ヴァレンヌ逃亡事件の際はここからルイ16世一家が脱出を試みた。ナポレオンも一時期王宮にしており、近年では再建計画もあるらしい。広大な敷地だが木陰も多いので散歩に丁度いい。屋台のクレープが美味しくて2枚も注文した。
広大なチュイルリー庭園 |
庭園からコンコルド広場方面に歩くと、オランジュリー美術館が川に沿って建っている。目玉はモネの「睡蓮」の部屋で、長椅子に腰掛け360度、淡い色彩の睡蓮の絵巻物を見回していると、水面が揺らぎ、その中にいるかのよう。テーマを絞った展示構成が好感で、1時間半ほどで回れる規模も適当。ルーブルやオルセーまで来たなら足を伸ばしたい。
【革命広場と断頭台】
コンコルド広場はもともと革命広場と呼ばれ、数多のギロチン犠牲者の血を吸った場所。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑が有名だが、これはギロチンの祭典の始まりに過ぎず、ロベスピエールの失脚で恐怖政治が終わるまで、この地に1,300人以上の首が落ちた。断頭台という用具で執行が容易になった事が大量の処刑を助長し、一瞬で事が終わる為、従来の八つ裂きなどに比べ残虐性を感じにくい。それは当時の娯楽だった。革命前はルイ15世広場と呼ばれていた |
ルイ16世処刑を描いた図に模して現場の写真を撮ってみた。ギロチンの設置場所は広場の北西の隅、ブレスト像のある地点(一定ではなかった)。描かれている背後の建物は同じなので、そこに焦点を合わせたのち一度空を見上げ、また広場に目を戻すと、当時の様子が眼前にあるかのような錯覚を覚える。
ルイ16世処刑の様子 |
背後の建物は当時から変わっていない |
王殺しの公開は、人々の認識を変えるセレモニーだった。死に際して演説しようとしたルイ16世だが、楽隊は太鼓を鳴らしてそれを遮り、処刑人は王をギロチンに押し込め、ほどなく首が高く掲げられた。現場は大歓声に包まれたが、民衆も政府も王のいない世界は未体験だったから、先行きに不安を感じた人も多かっただろう。
涼し気な噴水に集う人々 |
アントワネットの処刑時は、コンシェルジュリーを出たのち北に向かい、サントレノ通りで左折し、ロワイヤル通りから革命広場へと姿を現したと記録にある。シテ島から広場までの最短距離は、セーヌ川に沿ってそのまま右折するルートだが、沿道の民衆への見世物だから川沿いの道は通らない。
在位中から評判を落としていた彼女は道中罵声を浴び続けたが、最後まで毅然としていたという。それを目撃した画家ダヴィドのスケッチでは、胸を張り傲然の様体。王妃時代の肖像と似ても似つかない姿には、憔悴しつつも衆前で弱さを見せない気概が、表情と背筋に表れている。
処刑場に向かうアントワネット ※Wikipediaより |
フランス共和国は王の処刑後、党派間の権力闘争、恐怖政治、ナポレオンの帝政を挟んで王政復古、それに対する革命、と長い混乱の時代に突入する。それが今日の国の礎を築いたとすれば、大量の血が流れたこの広場は産道だったと見る事も出来る。
広場にそびえ立つオベリスク |
ベルばらの影響でもないだろうが、日本でのフランス革命のイメージは、とかく第三身分の勝利とポジティブに見られがち。権力が王侯貴族から中産階級へと移った点、近代への階にはなったが、無政府状態の中、凄惨な暴力と殺人が横行した時期でもあった。テロの語源もこの頃のフランスが発祥で、犠牲者の多くは女性子供を含む下層階級の人々。
広場では日常的にギロチンの刃が落ち、首が観衆に晒され、歓声がこだます光景が幾度も展開された。そんな日々が終焉したのち、革命広場はコンコルド広場と呼ばれ始めるようになる。調和という意味である。
【夕暮れの凱旋門】
コンコルド広場から西を望むと、凱旋門がシャンゼリゼ大通りの彼方に小さく見える。街路樹の下、華やかな雰囲気を楽しみながら、歩くほどに凱旋門が大きくなる様は、パリ街歩きの醍醐味。個人的には、映画「勝手にしやがれ」で、主人公とヒロインがここを散策するシーンが印象的。思い入れが国への好印象に直結し、ひいては収入に繋がるのだから、国家が映画に力を入れるのも道理。凱旋門へのアクセスは、地下鉄1, 2, 6号線が交差するシャルル・ド・ゴール・エトワール駅 (Charles de Gaulle Etoile) 駅からも可能。夕陽を浴びる凱旋門。東側から。 |
門の傍らの地下道を進むとチケット売り場がある。行列があっても、パス持参ならそのまま入口ゲートに向かえばよい。凱旋門の屋上へは螺旋階段をひたすら上っていくが、一方通行なので疲れたからといって、途中で止まる事も引き返すことできない。降りる際も事情は同じ。
観光客を励ます凱旋門内の兵士 |
屋上からの眺めは格別で、西日が落ちる景色は特に魅力的。陽の当たり具合で東西南北異なったパリの顔を堪能できる。夕暮れ時は涼しく、訪れるのに最も適した時間帯。建物の高さが統一されているので、真っ平らな人工的な地平線が美しい。都市計画とはかくあるべしと思わされる。
凱旋門屋上からコンコルド方面の眺望 |
人は引っ切り無しに上がってくるが、屋上のスペースは広々しているので場所取り合戦も無く、柵のかたわらでゆったりできた。パリに来る度に堪能したいスポットで、次回は日没後のライトアップと夜景も合わせて楽しみたいところ。
凱旋門屋上から南方面、エッフェル塔 |
凱旋門屋上から西方面 |
門を出て、パンと惣菜のお店で夕食を調達した。凱旋門を隔てて西に延びる大通りはシャンゼリゼから大陸軍 (La Grande Armee) と名が変わる。時刻は20時半でようやく薄暗くなり、所々のお洒落なカフェバーから賑わう声が聞こえてくる。大陸軍通りはめっきり人が少なくなり、きらびやかな向こうのシャンゼリゼとは別世界のようだった。
(2013/9/21)