牢獄の元王妃 (パリ 2)

【シテ島めぐり】

パリ観光はノートルダム寺院からスタート。初訪問の地はランドマークから見るのが一つの定石で、「来た!」と実感が湧き気分が盛り上がる。最寄駅はシテ駅(Cité)だが、乗換が2回必要だったので、手前のシャトレ駅(Châtelet)で降りて歩いた。街中心部のひと駅間の距離は徒歩10分程度だから、その方が早い場合がある。
参考: パリの地下鉄メトロ 切符の買い方・乗り方

風格あるノートルダム寺院

パリ発祥の地シテ島は中洲なので短い橋で行き来する。観光ポイントは、ノートルダム寺院の他に、サント・シャペル、コンシェルジュリー牢獄。いずれも歴史の深い建物で、徒歩数分の圏内にある。

ルーブル含めた徒歩30分内観光ルート

寺院近くの観光案内所でミュージアムパス4日券を購入した。美術館を複数回れば元を取れるし、そうでなくとも、チケット行列の手間を省けたり、パス専用入口を利用できる優れもの。手の平サイズで、パス対象の観光ポイント記載の用紙が織り込まれている。日付と名前を記入して発効。3日券42€、4日券56€、5日券69€(2013年当時)。

ノートルダム寺院では、正面の大階段に座り外観だけ眺めて満足した。周辺には観光客御用達のファーストフード店が軒を連ねる。細長いパンにハムやチーズを挟んだサンドイッチが定番で、大して美味くもなかったけど、手軽で結構ボリュームもあるので、急場の腹ごしらえには適当だった。


【牢獄のアントワネット】

マリー・アントワネットが最後の日々を過ごしたのがコンシェルジュリー牢獄。元王妃のみならず、大革命時ここに連行された人達の多くは断頭台の露となった。外観は当時のままで、中で繰り広げられた陰惨な人間模様を感じさせない、小綺麗な宮殿という印象。元々は王宮の一部だった。

青い屋根が映えるコンシェルジュリー牢獄

建物内のホールは広々として、皮肉にも開放感を感じるほど。ただし、収監部屋跡や当時の資料の展示を見るにつれ、徐々にここが大勢の死刑囚を呑み込み、吐き出した場所という実感が湧いてくる。革命期の「囚人」とは、革命に対する罪を"犯したとされる"人達のことで、殆どの場合、彼らの運命は恣意的に決定された。著名な革命家は大抵断頭台で人生を終えており、先鋭化し制御不能となった権力闘争の果てを見る思いがする。

コンシェルジュリー監獄内部

各独房の展示では、囚人の人形を模して往時を再現しているが、印象的だったのは、むしろ何の変哲もない中庭だった。ここはギロチン行きの囚人達の待機場所で、景色が昔とさほど変わらない分、静かな恐ろしさを感じる。隣で説明板を読んでいた女性が振り返り、首を切る仕草をして「怖いわね」という表情を見せた。

何の変哲もない中庭だが...

アントワネットを収監した独房も見世物のひとつ(ただし場所は当時と異なるらしい)。部屋には家具を置けるスペースがあり、他の粗末で狭苦しい牢屋に比べると、思ったほど悪くないというのが率直な印象。囚人部屋のランクは身分ではなく、払う金額によって待遇が変わったそうだが、元王妃は別格だったようだ。こちらに向けた背中がどことなく生々しい。

再現されたアントワネットの部屋

皇女としてシェーンブルン宮殿で生まれ育ち、王妃としてベルサイユ宮殿で暮らし、囚人として最後の夜をこの牢獄で明かした彼女だが、数々の作品でヒロイン扱いされてきたのは、この経歴が示す通り、眩い光を放った享楽的で派手な生活と、晩年の悲惨な境遇のコントラストがドラマになりやすいからだろう。

外国人という事情もあってか、プロパガンダで貶められた最初期のセレブでもあり、残念ながらつけ込まれやすい性質を兼ね備えてもいた。ただ暗愚ではなかった事は、皮肉にも死が迫った時期の、彼女の書簡や裁判証言などから窺え、その資質がもう少し早く、適確に発揮されていれば、彼女の運命も違ったかもしれない。

最晩年のアントワネット肖像 ※Wikipediaより

「ベルサイユのばら」の元ネタであるステファン・ツヴァイクの名著「マリー・アントワネット」では、好き放題に暮らしていた彼女が、革命勃発後逆境に陥るに伴い、人間的に大きく成長する様子が感動的に描写されている。コンシェルジュリー牢獄を訪れた(る)人にはお薦めの一冊。


【ルーブルの入口】

シテ島から20分ほど歩けばルーブル美術館に着く。ポン・デ・ザールという橋に差し掛かると、欄干に南京錠がびっしりと掛けられていた。愛の鍵といって錠で二人の愛を封印するのだが、のちに重さのあまり橋の一部が崩壊した。橋は歩行者専用で、所々にベンチが設置され、かたわらではミュージシャンが音楽を奏でている。休憩がてらセーヌの流れを眺めてのんびり。


ルーブル美術館は、元々セーヌ川から船で襲来する異民族に備えた要塞だけに、構えがいかめしい。館内は広大、展示物は膨大なので、体力のある日に来るつもりだったが、敷地内に足を踏み入れ、ガラスのピラミッドが目に入ると、素通りできない気分になった。

ルーブル美術館の威容

15時頃のピラミッド付近は長蛇の列。一方、広場からリヴォリ通りへ向かう通路の中程にあるパッサージュ・リシュリュー入口は、並んでいる人がほとんどおらず、セキュリティチェックを経てすぐに入場できた。各入口の詳細はこちら

まずモナリザを目指すと、見透かされたようにあちこちに順路標識がある。何だかアトラクションの様で多少興ざめ。モナリザのまわりは黒山の人集りで、皆いい位置で写真を撮ろうと激しいポジション争いを繰り広げていた。サイズは想像より随分小さい。ダヴィンチはこの画がお気に入りで、諸国を旅行中も持ち歩いたそうだから、この大きさが丁度良かったんだろう。

ルーブルは絵画の鑑賞というよりは、おのぼりさん一行の旅程の為に存在するかのようでもある。多額のお金が毎日コンスタントに落とされる、フランスの一大ブランドでありドル箱だ。今は美術品を周辺国から略奪するわけにいかないから、それをやったナポレオンはこんな形でもフランスに貢献し続けている。

どのフロアも天井が高くて絵画は巨大なものが多い。綺麗とか上手さより、よくこんなでかいのを仕上げたと感心。価値=大きさ、という気がするが、現在も絵の値段は何号幾らで換算されるから間違いでもない。失望したのは、所々破けているソファがあったり、トイレもあまりきれいじゃないなど、手入れがイマイチだった点。世界的美術館らしからぬ失点だが、出入りする人が多すぎてメンテが追いつかないのかもしれない。

宗教画や肖像画ばかりなので次第に飽きた。加えて、一日分の不眠の疲労が押し寄せ始め、すぐにでもぐっすり眠りたいと、未見の作品を諦めて切り上げることに。そんな事情で、ルーブル美術館は総じて大味な印象。


【運転見合わせ】

帰路のメトロでは運転見合わせの不運に遭った。ホテル最寄の13号線レザニェット駅(Les Agnettes)までは、1号線ルーブル美術館駅 (Palais Royal-Musée du Louvre)からシャンゼリゼ駅(Champs-Élysées-Clemenceau)で乗り換えるが、13号線で電車が停止し、乗客全員が降ろされた。車掌にジェヌヴィリエ方面への代替案を尋ねると、サン・ラザール駅(Saint-Lazare)に行けと言われ、そこから北方面の13号線は運行中なのかと赴くとちょうど電車が来た。

ほっとしたのも束の間、また運行が停まる。18時過ぎで帰宅ラッシュが始まり、人も溜まってくる。ふいに構内アナウンスが流れ、ざわめきがピタッと止まり、とある箇所で、落胆と怒りの混じったどよめきが一斉に起こった。言葉はわからないが「しばらく運転を見合わせます」と通告されたのは一目瞭然。

その後の光景は日本と同じ。知人に連絡する人、スマホで代替ルートを調べる人、駅員を取り巻く人。大勢が出口に向かったが、車両にも客が残っているので、運休ではないらしい。いつの間にか制服の駅員は消え、ビブス着用のスタッフが各車両1人の割合で配置され、対応に当たっていた。苛立ちで当たり散らす乗客も僅かにいたが、大抵は冷静だった。

代替でバスを考えたが、教えられたルート番号をバス路線図で調べたら、終点がセーヌ川の手前で、ホテルはセーヌのはるか向こうだから却下。タクシーなら簡単だが、メトロ側の都合で数千円出費するのも無駄だし電車を待つか、などと思案しているうちに、重たい眠気は吹っ飛んでいた。結局トラブルから2時間後に運転が再開。

まだある。13号線は北方面で分岐するが、到着車両の電光経路図にも、駅の発車標にも行先が明示されない。乗り間違いを避けるべく、乗客たちは尋ねあったり、駅員に確認後それを伝え合ったりと大わらわ。発車間際に誰かが「これは○○行きらしい!」と叫ぶと、大急ぎで電車を飛び出す客と乗り込む客が交錯し現場は大混乱。慌てる姿には国籍も人種も関係無いと、もはや可笑しかった。

その後ようやく確実な電車に乗り込み、一件落着。着いて駅構内を出ると、20時過ぎなのにまだ明るいのにはびっくりした。9月下旬のパリは、日の出が7時半頃、日の入りは20時過ぎ。生まれて初めての明るい午後8時には、朝の薄暗さの代償として新鮮だった。
参照: 日本と世界の日の出日の入り時間

(2013/9/20)