清正の山城(釜山1)

【ひとり焼肉】

LCCセール価格で釜山を訪れた。主目的をグルメと倭城見学に絞り込んでいざ出発。

西生浦倭城跡

金海国際空港に着き、ATMでキャッシング後、海外旅行の恒例になった交通系ICカードの購入。コンビニのレジで「T-money」と伝えたところ、代わりに「cashbee」を手渡された。どちらも機能は同じ(と店員も思ったのだろう)なので、空港駅の券売機で早速チャージ。買い物にも使え、残額も返金可だから、多めに入金しても良さそう。空港駅から沙上(ササン)駅まで軽電鉄線、そこからのメトロは別系統になるが、相互連携されているので切符の買い替えは不要。

空港から釜山駅までは乗換を含めても約1時間とまずまずの距離感。最初の晩餐はひとり焼肉OKの駅前チェーン店トネヌ。焼肉店は2名以上の条件がつく場合もあるから有り難い。店内は満席の賑わいだったが、折よく空いた4人用座席に案内された。だけに長居も憚られる。あっという間に数種の小皿がテーブルに並べられ、脇役だけでも存在感たっぷり。

小皿の一品はセルフサービスで取り放題

はじめは店員さんが肉を焼いてくれる。焼肉とツマミをサンチュに巻き、タレをつけて食す。このタレが美味で、醤油ベースで甘辛く、イマイチな肉のクオリティをフォローしてくれる。脂濃さと辛さはビールと相性が良く、野菜とからめて一気に平らげた。隣卓で見かけたアルミ箱の海苔弁当を付ければ量的に丁度だったが、別の店をハシゴしようと、市場がある南浦洞(ナンポドン)に移動した。

キムチやナムルを一緒に焼く

【フルーツマッコリ】

チャガルチ駅を出てゆるい坂道を上がれば、屋台がずらりと並ぶ一帯に出くわす。映画スターの手型タイルが敷き詰められたBIFF広場という一角で、テント内は歓談に興じるお客で満たされている。占い屋コーナーが物珍しく、数の多さからそれなりに需要がある様子。

BIFF広場近くのテント屋台群

路地は各店のテラス席で埋め尽くされて賑やか。アーケードに入ると、韓国のみならずアジア全般の軽食屋台が軒を並べ、国際色溢れる空間。小腹を満たし軽く飲める所を物色したが、どこも人が多くて決めづらく、屋台は翌日に持ち越すことに。

アーケード内の富平カントン夜市

落ち着いた店で初日の夜を締めようと、トップネという居酒屋に入った。目玉のフルーツマッコリはカラフルなビジュアルがお洒落で、口当たり良く飲みやすい。大勢で飲むものらしく、大瓶でたっぷりと提供される。マッコリだけの注文はNGと言われ、好物のチヂミをツマミに頼んだら、これもシェア前提のボリューム感。焼肉の後だけに満腹に苦しんだが、広い座敷と古風な内装は落ち着けた。

具もしっかり入ったチヂミ

韓国はキャッシュレス化が進んでいて、少額のカード払いもさっと済ませてくれる。一応現金も用意していたが、結果的に旅行中その半分も使わなかった。


【西生浦倭城への道】

翌日は倭城見学。倭城とは秀吉の朝鮮出兵時に築かれた城郭で、戦国時代の城の多くは江戸初期に破却されたが、奇しくも異国にその幾つかが当時の姿を留めている。中でも保存状態が良いとされるのが蔚山(ウルサン)にある西生浦倭城

公共交通機関での釜山から西生浦倭城へのアクセスは、韓国鉄道(Korail)釜田駅から南倉駅まで乗り、そこから715番のバスを使う。所要時間は、釜山市内から目安1時間半〜2時間くらい。直近のバス番号はグーグルマップで、南倉駅から西生浦倭城へのルートを検索するのが無難。

釜田駅は西面(ソミョン)にほど近く、朝昼兼用の腹ごしらえに、春夏秋冬(チュナチュドン)なるミルミョンのチェーン店に入った。釜山式韓国冷麺で、昨夜は重たい夕食だったから良い按配。シャーベット状のスープに浸り、豚肉とゆで卵を頂いた麺は、付属のハサミで適当にちょん切りながら食す。旨味がしっかり効いていて、毎日でも食べられそうなあっさり味。量的にも不足なかった。

見た目も涼やかなミルミョン(7,000ウォン)

釜田駅では窓口で「南倉(ナムチャン)」と伝えて指定席切符を購入。海外の鉄道の常だが、日本のようにICカードでさっと改札を通り、来た電車に乗るという手軽さがない。列車は数百円の切符代に相応しく地味でくたびれ気味。一応は特急のいでたちで、指定の座席を見つけるとひと心地。到着まで1時間弱。

ガラガラの車内は次第に混み始める

列車は東海線を海沿いに北上する。途中、東莱(トンネ)と機張(キジャン)駅を通過するが、これらも倭城があった拠点。日本軍は上陸地点釜山を軸とし、東西沿岸に手を広げるように城塞網を構築した。主要城は西端が順天城、東端が蔚山城で、西生浦城は蔚山城の約15km南に位置する。半島南部に根拠を築くことで、明国への橋頭堡とする意図があった。

降り立った南倉駅周辺は田舎の風情で、長閑さに思わずうーんと背伸び。駅舎は古びて小ぢんまりし、そばには市が立っている。駅からまっすぐ歩くと左手にバス亭が見えたが、これは復路側で、倭城方面のバス停はその先を右折した所。715番バスが来て、前から乗車しICカードでピッと精算。カードリーダーは後方にも設置されているが、降りる際のタッチは不要。ただしタッチしておくと、30分以内にバスまたはメトロに乗り継ぐ際、割引適用となる仕組み。

車窓からこの案内版が見えたら降車

交通量の少ない道路を路線バスはスピードを上げて走る。倭城を示す標識に気づいた頃には、瞬く間に降車地を通り過ぎていた。次のバス停で降り、もと来た道の山側を仰ぐと、麓から距離が空いた分、図らずも全景の威容を目にする事ができた。


【倭城を登る】

山麓は民家が入り組んでいてやや道に迷った。たどり着いた倭城の入口には史跡観光用の小施設があり、スタッフの人から案内の申し出を受けたが、ひとりが気楽なのでとやんわり断った。山城だけにそこそこの登坂になるから、歩きやすい靴と事前の腹ごしらえ、水の携帯程度はしておいた方が良い。

かつて石垣上には櫓が構えられていた

平日もあってか観光客は見かけず、古城を独占状態だった。当時の建物はすべて消失しているが、石垣は城の構造を今に伝えており、山を登るほど城に入り込んでいく感覚。但しきれい過ぎる石垣は近年”修復”されたもので、熱心な保存活動により、倭城の"破壊"が進んでいる側面もあるとの事。日本国内にも言えることだが、史跡保護は慎重であってほしい。

野面積みの石垣

遺構は想像以上のスケール。遠征先でこれほどのものを僅か1年で造り上げた能力に、戦国日本のエネルギーを感じざるを得ない。しかもここは計30ほど築かれた倭城の1つにすぎず、主城ですらない。築城に投じられた労働力は膨大だったはずだが、多くの現地民が徴発されただろう点は留意すべき。西生浦を担当したのは城作りの名人加藤清正。熊本城の着手はこれより後なので、当地の経験も活かされたに違いない。

中腹には海が開け、その見晴らしの良さに、ここに城が築かれた理由も納得。九州と朝鮮半島を繋ぐ倭城のネットワークは補給地の役割を担っており、軍港として海に面し山にそびえ立つのが一般的。眺望は昔日とさほど差異なさそうで、船団が浮かぶ光景が見えるよう。

かつて清正も眺めた海景色

古来日本の要塞は朝鮮の影響が色濃かったが、戦乱期に入ると独自の築城技術が発達し、倭城各城には戦国のノウハウ、大名の能力と個性が反映されている。反面朝鮮では長い平和で軍事的進歩も準備も滞っており、あえなく占領を許す結果を招いた。最終的に日本が撤退したとはいえ、落城した倭城はひとつも無く、堅牢さに着目した朝鮮がのちにその技術を取り入れたともいう。技術の逆輸入だ。

寄せ手を上から挟み撃ち
死角が設けられたルート

西生浦での戦闘は発生しなかったが、慶長の役では、築城中だった蔚山城に明の大軍が押し寄せ、清正が当地から救援に向かっている。戦局は深刻な兵糧不足から凄惨な籠城戦に推移し、援軍到着で危機は脱したものの、この苦戦に対する軍目付の報告に秀吉が激怒、現地将兵から処罰者を出す事態に発展した。諸将の憤懣は豊臣家官僚との亀裂を生み、関ヶ原を経て徳川家の日本支配を促す一因にもなった。

整備されていない所に風情がある
数百年放置されたままの天守跡

麓に降りると、出迎えてくれた案内所の人達から少し話していきませんかとお誘いされた。倭城史跡は韓国が保護管理しており、そのお陰で観光も可能な点は疎かに考えるべきではない。興味を引かれつつも、語学力が伴わない中、侵略の歴史に話題が及び、不必要な感情の齟齬をきたせばお互い面白くなく、帰路のバスと電車の乗り継ぎにも支障があった為、丁重に辞退した。先方にすれば、わざわざ1人で訪れた日本人の感想に関心が高かったのだろう。